稲荷神 由来
伏見稲荷大社を創建したと伝えられる秦氏族について、『日本書紀』では次のように書かれている。
欽明(きんめい)天皇が即位(539年または531年)する前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたところ、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父がいた。
平安時代に編纂された『新撰姓氏録』(しんせんしょうじろく)記載の諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」(はたうじ)の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王(こうぶおう)の子孫にあたる功徳王(くどくおう)が仲哀(ちゅうあい)天皇の御代に、また融通王が応神(おうじん)天皇の御代に、127県の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化したという記録があるが、加羅(伽耶。かや)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓(しんかん)=秦韓(しんかん)と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。
雄略(ゆうりゃく)天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立った。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことだと考えられている。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして神威赫々たる大神社を建てた。深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社(まつのおたいしゃ)を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を創建した秦伊呂巨(具)(はたのいろぐ)となっており、いわば分家と考えられていたようである。