二十二社 成立の過程

 


前節で記載した他にも、『日本紀略』には同時奉幣記事が多数あるが、『摂関時代における神社行政 -二十二社の成立を主題として-』が指摘するように、奉幣社数は次第に増えて行ったのでは無く、適宜に奉幣社数が増減している。また、同書によれば、『日本紀略』での数社の表記法には、多少の異動はあれ一定の順位が守られており、京周辺の名社をある基準に基づいて配列・表記した二十二社記の原型となる帳簿があったのではないかと推測している。その帳簿を基に適宜奉幣社が選ばれ、その社数と奉幣社名の合一がしだいに慣例となって固定化し、二十二社成立の一因になったと推察している。



『摂関時代における神社行政 -二十二社の成立を主題として-』では、二十二社の選定基準についても考察している。それによれば、最初の16社の選定基準は山城国および大和国に鎮座する極位の神階を有する式内官幣大社で、各社の神徳や社運も考慮して選定されたのではないかと推定している。続く3社については、吉田神社(よしだじんじゃ)藤原師氏神のゆえ、廣田神社(ひろたじんじゃ)住吉大社同様に皇室の守護神・護国神としての神徳に昇揚された古来の名社ゆえ選定されたと推測し、北野天満宮は北野の怨霊と神験が選定の動機になったのではないかと推察している。さらに、20社目の梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は『公事根源』(くじこんげん)に記されているように橘氏(たちばなうじ)を外祖母とする摂関家の推挙によるもの、21社目の祇園社(ぎおんしゃ。現在の八坂神社(やさかじんじゃは疫癘鎮遏(えきれいちんあつ。疫病を鎮める)の神徳から推測し、正暦5年(994年)4~7月の悪疫流行が動機ではないかとしている。最後の日吉大社(ひよしたいしゃ)比叡山延暦寺の守護神として崇敬されていたが、加列に要した年数をみると、十六社制が成立した康保3年(966年)から二十一社制が成立した長徳(ちょうとく)元年(995年)まではわずか30年であったのに対し、二十一社制の成立から日吉大社の加列があった長暦(ちょうりゃく)3年(1039年)まで45年、さらに二十二社が永例とされる永保元年(1081年)まで43年を要していることから、『扶桑略紀(ふそうりゃくき)長暦3年(1039年)2月18日の条に見える比叡山の山門宗徒3,000人による関白への強訴や、同じく長暦3年3月16日の条に見える延暦寺法師による高陽院(かやのいん)焼失などの事件があったため、同年8月18日に日吉大社を暫定的に加列させ、永保元年(1081年)4月からの延暦寺と園城寺(おんじょうじ)の対立後に、山門宗徒の強訴もしくは彼らへの慰撫のために止むを得ず加列を永例として決定し、二十二社制が確立したのではないかとしている。