二十二社 成立の起源 ②
同書では、律令体制弛緩の証左として、『本朝文粋』(ほんちょうもんずい)の延喜14年(914年)4月28日上奏の三善清行(みよしの きよゆき/きよつら)の意見封事にある、神祇官の幣帛受納に参集した諸社の祝部が、幣帛の絹や神酒、神馬を着服し、一人も幣帛を本社に捧げて祈請する者がいなかったとする記述。『日本紀略』(にほんきりゃく)の天暦(てんりゃく)2年(948年)11月22日の条にある、新嘗祭において諸卿の不参が多く神事が遅滞した記述。さらに、このような神事闕怠(けったい。なおざりにすること)に対する禁令がしばしば出されていることなどを挙げている。
さらに同書では、社殿の造替、神事の厳修を標榜する律令的神祇行政の再編成を行う一方で、既に神階が極位に達していた諸社が皇親の参詣や臨時奉幣を仰いだために、畿内周辺の名社を偏重する傾向が進んで行ったと述べ、その遠因は桓武天皇の平安京遷都にあるのではないかと推察している。すなわち、平安京遷都後、皇室の祖神、外戚神と仰がれ、有力氏族に奉斎され、民衆に除災招福の利益を与える名社として特別の崇敬を得た諸社が、京周辺にあって顕著な発展を遂げたのだと、その理由を推測した。
同書によると、これら幣帛を受ける名社が次第に固定化されていく様子は、『日本紀略』を通覧した際に散見される、数社同時奉幣記事に見ることが出来るとしている。