一宮 歴史 起源 



では国司が最初に神拝する神社はどの様に選定されたのか、以下にいくつかの説を上げる。

 


1 『「一宮」の選定とその背景』では、一宮の選定は、民衆の篤い崇敬を背景とした考え方が要因になっているとする。すなわち、民衆の一般的な崇敬を基にして起こった神社への等差的観念が「一宮」の選定と言う形になって現れ、それ故に官製の正式な文献に記録されなかったとしている。

 


2 『中世成立期の軍制』では、「民衆の信仰を背景とする考え方」、「一般の信仰に基づいて起こった神社に対する等差的観念」が反映しているのは確かとしても、結局は国司の諸社待遇上の等差・国司の管内諸社祭祀の順位が現れたものとしている。

 


3 『「鎮守神」と王権』では、一宮制の神社制度としての特質を当該期の王権との関係から考察し、中世の神祇体系は「鎮守」体系を機軸とし、国司神拝は天皇の代理として「国中第一」の霊神と鎮護国家の盟約を更新する祭儀であり、これが後に「国鎮守」としての性格を顕在化させたのではないかとしている。

 




また、『国司神拝の歴史的意義』では、一宮と総社(そうしゃ)二十二社との関係を考察している。それによれば11世紀から12世紀前半までの国司神拝を支えていたものは、一口で言えば「一国完結的な神社体制」と呼べるものであり、これがそのまま総社制・一宮制・諸国神名帳などを形成する基盤でもあるとしている。同書は『摂関時代における神社行政 -二十二社の成立を主題として-』が述べている、「諸社同時奉幣が11世紀の間に定例化したことにより二十二社制が成立した」との説を踏まえ、諸国の一国内完結的神社体制の形成に対応するのは、中央における二十二社体制の形成と確立ではないかと考察している。



しかし、一宮制と二十二社制を一括した国家祭祀体制として論じることには慎重な意見もあり、『平安期の国司祭祀と諸国一宮』では、二十二社制は京都朝廷による地域限定の自己完結的祭祀体制であり、国ごとの多様性をもって国衙(こくが)社家武家の間で複雑に展開する一宮制との方向性には大きな溝があるとし、なお検討が必要ではないか、と述べている。