一宮 歴史 起源 ①
江戸時代後期の国学者である伴信友(ばん のぶとも)は、正保8年(1837年)の著書 『神社私考』の中で、「一宮を定めた事は信頼できる古書類には見えず、いつの時代に何の理由で定めたか詳しく分からない」と前置きした上で「『延喜式神名帳』が定められた後の時代に神祇官あるいは国司などより諸国の神社へ移送布告などを伝達する神社を予め各国に1社定め、国内諸社への伝達および諸社からの執達をその神社に行わせたのではないか。また、それらの神社は便宜にまかせ、あるいは時勢によるなどして定められた新式ではないか」と考察しながらも、伴信友は自説に対して「なほよく尋考ふべし」と書き添えた。
現在、一宮の起源は「国司が任国内の諸社に巡拝する順番にある」とするのが通説になっている。『朝野郡載(ちょうやぐんさい) 巻22』に所収された「国務条々事」には国司が任国でなすべき諸行事や為政の心得が42箇条に渡って記されているが、この中に「神拝後択吉日時、初行政事、云々」、「択吉日始行交替政事、択拝之後、擇吉日、可始行之由牒送、云々」と言う条文があり、国司は赴任すると管内の主要神社へ参拝し、それら神社に幣を奉るのが最初の執務であるとされていた。この国司初任神拝は、同じ『朝野群載 巻22』に所収された「但馬初度国司庁宣」や「加賀初任国司庁宣」にも見ることが出来る。
『国司神拝の歴史的意義』では、10世紀末に成立した『兼盛集』に見える駿河国司の富士山本宮浅間大社神拝の記述、天元(てんげん)5年(982年)の『太政宦符案』に越前国司が初任に際して越前国一宮である氣比神宮(けひじんぐう。気比神宮)に神拝している記述、『時範記』(ときのりき)承徳(じょうとく)3年(1099年)2月の条において国司が因幡国一宮である宇倍神社(うべじんじゃ)を起点に国内諸社を巡拝している記述などをあげ、国司神拝が任国における就任儀礼として10世紀から11世紀初頭までに一般化しつつあったと述べている。その後、『中右記』(ちゅうゆうき)の元永(げんえい)2年(1119年)7月の条に見られるような、国司が任国へ下向しない風潮が一般化するとともに国司神拝は簡略化・形式化し始め、在庁と深い関係で結ばれた主要神社に代表的な地位を与えて、その神に国司就任を認めさせることで国司神拝に換えるようになった。しかし、この様な国司神拝が生きた慣例・制度として機能したのは12世紀前半までで、その頃から在地神祇の代表であり神拝対象社の筆頭でもある一宮が、国司の礼拝を一身に教授する国鎮守としての性格を強めて、一宮の呼称が成立したのではないかと考察している。