天孫降臨 日本書紀 ⑦
第九段一書(六)では、天忍穂根尊(あまのおしほね)は、高皇産霊尊の娘の栲幡千千姫万幡姫命、または高皇産霊尊の子の火之戸幡姫(ほのとはたひめ)の子、千千姫命(ちぢひめ)、を娶りて生みし子の天火明命(あまのほのあかり)。次に天津彦根火瓊瓊杵根尊を生む。その天火明命の子の天香山(あまのかぐやま)が尾張連等の遠祖である。
皇孫の火瓊瓊杵尊を葦原の中つ国に降臨し奉るに至るに及びて 〜中略〜 この時高皇産霊尊は真床覆衾を皇孫の天津彦根火瓊瓊杵根尊に着せて、天八重雲を排披(おしわ)けて、以ちて降(あまくだ)し奉る。 そこで、この神を称えて天国饒石彦火瓊瓊杵尊(あまつくににぎしほのににぎ)と言う。 時に降り到りし所は、呼びて日向の襲(そ)の高千穗の添山峯(そほりのやまのたけ)と言う。〜中略〜 瓊瓊杵尊は吾田(あた)の笠狹之御碕(かささのみさき)に辿〔たど〕り着き、長屋の竹嶋(たかしま)に登る。その地を巡り見るとそこに人がいた。名を事勝国勝長狭と言う。
天孫がそこで、「此は誰が国ぞ。」と尋ねると、「これ長狹が住める所の国也。然れども、今、天孫に奉上らん。」と答えた。天孫がまた、「その秀起(さきた)つる浪穂(なみほ)の上に八尋殿(やひろとの)を起(た)てて、手玉(ただま)も玲瓏(もゆら)に織経(はたお)る少女(おとめ)は、是(これ)誰が子女(むすめ)ぞ」と尋ねると、「大山祇神が女(むすめ)等、大(あね)を磐長姫(いわながひめ)ともうす。少(おとと)を木花開耶姫ともうし、または豊吾田津姫(とよあたつひめ)ともうす」と答えた 〜中略〜 皇孫(すめみま)因りて豊吾田津姫(とよあたつひめ)と招くと 則ち一夜にして身籠る。 皇孫はこれを疑う。 〜中略〜 それにより母(いろは)の誓(うけい)がはっきりと示した。方(まさ)(本当)に皇孫の子であったと。しかし豊吾田津姫は皇孫を恨んで共に言わず。(口をきかなかった)皇孫は愁えて歌を詠んだ。
憶企都茂播 陛爾播譽戻耐母 佐禰耐據茂 阿黨播怒介茂譽 播磨都智耐理譽(沖つ藻は 辺には寄れども さ寝床も あたはぬかもよ 浜つ千鳥よ)※意味【沖の海藻は浜辺に打ち寄せらるるが、我は共に寝る事も出来ず。浜の千鳥よ。】
以上がこの一書の内容である。異伝である為、要所要所で略してあるのは他の書と酷似しているからと思われる。