天孫降臨 日本書紀 

 


(注)日本書紀の本文と一書(あるふみ)について:本文の後に注の形で「一書に曰く」として多くの異伝を書き留めている。正しいと判断した伝承を一つだけ選ぶのではなく本文と異なる異伝も併記するという編纂方針。

 




日本書紀』の第九段本文では、天照大神の子(みこ)正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみ)、高皇産霊尊(たかみむすひ)の女(むすめ)幡千千姫(たくはたちぢひめ)を娶りて天津彦彦火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎ)を生む、とある。



その後、天稚彦の派遣から葦原中国平定後、時に高皇産霊尊は真床追衾(まとこおふすま)を以ちて、皇孫(すめみま)天津彦彦火瓊瓊杵尊を覆って降臨させた、とある。



皇孫は天盤座(あまのいはくら)を出発し、また天八重雲(あめのやえくも)を押し分け、稜威(いつ)の道(ち)別き道別きて、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穗峯(たかちほのみね)に天降き、とある。



続いて道中の解説後、その地に一人の者がいて、自ら事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名乗った。



皇孫は「国在りや不(いな)や。」と尋ねると 彼は「此(ここ)に国は有ります。請(ねが)わくは任意(みこころのまにま)に過ごしてください。」と答えた。故に皇孫は行って留まり住んだ、とある。



その時、その国に美人(たおやめ)がいて、皇孫がこの美人に、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「妾(やつこ)は天神(あまつかみ)が大山祇神(おおやまつみ)を娶って生んだ子です」と答えた。名を鹿葦津姫(かしつひめ)という、とある。その後鹿葦津姫の出産の逸話がある。



最後にしばらくして天津彦彦火瓊瓊杵尊が崩(かむざ)りき。そこで筑紫(つくし)の日向(ひむか)の可愛之山(えのやま)の陵(みささぎ)に埋葬された、とあり締めくくられている。