宮中賢所の八咫鏡


 

皇居の八咫鏡は、賢所(けんしょ/かしこどころ)に奉置されていたことから、その鏡を指して賢所(かしこどころ)ともいう。そのため、あえて賢所のことをいう場合にはこれを「けんしょ」と呼ぶか、またはその通称である「内侍所」(ないしどころ)といって、これを言い分けたという。しかし後世になると内侍所も神鏡のことを指す言葉となった。



内侍所の神鏡は天徳(てんとく)4年(960年)、天元(てんげん)3年(980年)、寛弘(かんこう)2年(1005年)に起こった内裏の火災により焼損している。天元の際に半ばが焼失し、鏡の形をとどめないものとなった。寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管した。このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、諸道に勘文(かんもん)を提出させた。翌寛弘3年7月には一条(いちじょう)天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣 藤原道長が改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われなかった。



その後、平家の都落ちとともに西遷し安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともに回収したものが今日も賢所に置かれている。