神理教 組織と展開 終戦まで


1906年に教祖の経彦(つねひこ)が死去すると、2代目管長に長男である佐野伊豆彦(いずひこ)が就任する。2代目管長が1936年(昭和11年)に死去すると、3代目管長に伊豆彦の3男の佐野珍彦(さの うずひこ。1917年 - 1948年)が就任した。まだ若かったために、伊豆彦の弟である佐野高嶺(さの たかね)が3代目管長を補佐している。



教勢の広がり方に鉄道の影響が見られ、以降は四国での教勢は緩やかに減っていく。ほかに比較的多かった岡山県でも減少していくが、京都、大阪、兵庫県では増加していく。北海道にも増えていくが、これは宗教行政上、ほかの組織ないし教団が財政上の優遇などのためより大きな教団に所属したという時代背景がある。「巫神占免許」の免許取得者は、1907年から1945年までの39年間で5342人で、男女は半々である。



1940年(昭和15年)、宗教団体法が制定され神道教派の一派となる。