神理教 神理教会の設立


1854年、佐野経彦は国学も学んだ後、家伝の書も受け継いでおり、21歳ではじめての著書『天津皇産霊孝』を著し、これは神道における天津神(あまつかみ)の考察である。このころは皇国医道を業とし、808年に編纂されたの『大同類聚方』(だいどうるいじゅほう)といった書に依拠し日本固有の古医道を目指していたとされる。皇国医道だけでは肉体しか助けられないとし、人心の治癒を意図するようになり国学を唱導し、1875年(明治8年)から1876年には、太政官内務省に神道に関する著書を献納している。同1875~76年にはたびたび不思議な夢をみるようになったが、1876年10月16日には遂に日月五行の神々が夢に現れたことをもって、講席を開くことにする。1877年(明治10年)8月、講席を開く。



経彦は1878年(明治11年)には『神理図解』(しんりずかい)を著し、翌年1月には神道事務局より教導職の教導職試補に申しつけられ、同年中6月30日には教導職の権少講義となり、さらに翌年の1880年(明治13年)7月19日には神理教会の開設が許可されている。



1881~1882年(明治14~15年)ころ、経彦は献本、神理教会に教導職試補を増やす許可を得ること、ほかの神道界の人々の考えを知るなどさまざまな目的を持って上京し、京都、伊勢にも寄った。天皇への教書の献呈も叶っている。献本の返礼として神道教導職の総裁であった有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)および熾仁親王(たるひとしんのう)から下賜があり、幟仁親王からは神理無敵との筆書きを拝領し、これは現在も神理教本院に掲げられている。すでに神理教会で皇大神を奉祀していたが、伊勢神宮の皇大神宮の正式な分霊を願って、神宮司庁に赴いたが、神宮教会所属でないので規則で分霊できないと断られ、さらに伊勢神宮祭主久邇宮(くにのみや)の指示を仰ぐよう言われ奔走したがこれは遂に叶わなかった。外宮の豊受大神宮(とようけだいじんぐう)については経勝が神託をうけ分霊を奉載している。後に有栖川宮より皇大神の神鏡を賜っている。



経彦は1883年(明治16年)には教導職の大講義となる。なかなか教派としての独立の認可が下りないことから、御嶽教二代管長の鴻雪爪(おおとり せっそう)に相談し御嶽教の所属となる、御嶽教では経彦は教導職の大教正まで至る。1894年(明治27年)10月19日には教派神道として独立を公認され経彦が初代管長となる。



1903年(明治36年)には独立十年奉祝祭が開かれ、皇族華族から歌が送られている。



経彦は国学を学んでいたので『古事記』『日本書紀』と言った古典(神典)を重視した。伊勢派と出雲派に分かれた祭神論争に際しても、神道界として協力すべきという見解を示している。加えて、神典の解説にとどまらず、神典の解読から「人の心を和して導く」ことを重視し、神典からなる教説に重きを置いていた。