扶桑教(ふそうきょう)
扶桑教(ふそうきょう)は、散在する富士講(ふじこう)を結集し1873年(明治6年)に設立した富士一山講社(ふじいちやまこうしゃ)に起源をもつ教派神道の一派である。
駿河国富士郡(現・富士宮市)の浅間神社(せんげんじんじゃ)の宮司で、山梨県北口の浅間神社の社司も兼務した宍野半(ししの なかば)がその宮司時代に、1873年(明治6年)に各地の富士講を結集し、明治6年に富士一山講社設立の運動を起こし、9月9日、富士一山講社となる。吉田口(よしだぐち)から入山する身禄派(みろくは)以外に、須走口(すばしりぐち)、大宮口、村山口、須山口などの富士講諸派の包括を方針とした。関東の有力な富士講や吉田・須走の御師(おし)が指導的立場に立った。
1875年(明治8年)に富士一山教会と改称。明治9年2月に太祠(たいし)を建立し、扶桑教会と改称。扶桑教会の基盤ができると宍野半は、宮司などを辞任し扶桑教に力を絞る。
1882年(明治15年)、扶桑教が教派神道の一派として独立し、経典『扶桑教』を刊行。
1884年(明治17年)5月13日、宍野半が死亡すると、神宮教の神宮大麻(じんぐうたいま)・神宮暦(じんぐうれき)の内紛があった際に宍野が尽力したため、神宮教の初代管長の田中頼庸(たなか よりつね)が扶桑教管長事務取扱を兼務した。1894年(明治27年)に、成長した宍野健丸(ししの たけまる)が二世管長に就任する。