神宮教 伊勢信仰の布教母体


1872年(明治5年)7月20日に伊勢神宮(いせじんぐう)少宮司(しょうぐうじ)居武将にも所属した浦田長民(うらた ながたみ)神宮教会の設立を願い出て、10月には教学のための神宮教院の届を出し、教徒のための講社を設け、従来の伊勢講(いせこう。太々講(だいだいこう))を基盤に神宮教会の傘下とし再編成を行った。神宮教院は神宮教会の中枢として設けられた。



1873年(明治6年)、伊勢神宮の大宮司である本庄宗秀(ほんじょう むねひで。松平宗秀)による2000両の献金をもとに、全国の教会の模範となる説教館を設置し、8月には時擁館(じようかん)と名付けられ明治神宮内の神宮教会を意味した届け出は3月で、開館は10月1日である。各地の講社は愛国講社などと称したが、1873年(明治6年)10月には統一され神風講社となる。



1873年(明治6年)7月から12月の神宮教会の巡教では、企画は浦田、説教者は本庄やほかの共同職が行い、連日多いときには9000人余りそうでなくとも数百から2000人程度の聴衆が集まった。



大教院が瓦解すると、浦田の教化策に従い、東京に出張所を設け全国の各教区に本部教会1つと支部教会を置いた。