皇典講究所 歴史 ①


明治31870年)に大教宣布の詔が発布され、明治9年1876年)には神道事務局に生徒寮を設置して神職の養成に力を注いだ新政府であったが、政教分離・信教の自由論が世の中に広まり、教導職制が廃止された。それに伴い神道事務局の中では、旧典練習所をより発展させた機関を設置する必要があるとの考えが強くなっていた。このような社会情勢の中、岩倉具視、伊藤博文、井上毅(いのうえ こわし)らは、国本を強固にして将来に対処する必要を痛感し、しかるべき教育機関の設置を企図していた。



1875年明治8年)神道事務局が設置された時、大教院に奉祀していた四柱大神(天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、神皇産霊神(カミムスビノカミ)、天照大御神(アマテラスオオミカミ))に新たに八百万神(やおよろずのかみ)が合祀され、これらが神道事務局神殿の祭神とされていたが、1877年明治10年)から具体的に始まり、1880年明治13年)に新築完成した、神道事務局神殿に奉祀する祭神をめぐって、大論争が展開されたのである。



神道界はじつに数年間にわたって真二つに分裂して対立・抗争をくり返す。政府は、神道界の分裂・抗争に憂慮し、祭神論争の収拾、神道界の混乱の収拾に乗り出すのである。



1880年(明治13年)、政府は山田らを神道取調掛に任じ、また12月28日、勅諚(ちょくじょう。天子の命令。詔(みことのり))を持って神道大会議を開催させ、一挙に事の解決にあたろうとしたのである。



1881年明治14年2月3日から19日にいたる神道大会議は、神道事務局定規のみを議論しておわり、天裁を待つことになったのである。2月23日、先の神道予備会議で決定し、神道教導職総代の名で上奉を仰いだ祭神並に管長の件についての勅裁が下されて、祭神論争に一応の終止符を打ったのである。祭神論争は、このように政府・天皇が解決にのりだし勅裁ということで一応、終止符が打たれたが、問題を根本的に解決したのではありえなかった。



神道界を二分した祭神論争が勅裁により終結すると、内務省の内部に神道界を再編しようと模索する動きが出てきた。神道大会議直後に内務卿の山田顕義(やまだ あきよし)の建議により設置が決まり、祭神論争の反省を踏まえ、政教分離思想を取り入れた純粋な国典研究と、神官養成を目的とした皇典講究所の設立を認可した。御下賜金を財源に、麹町区飯田町(現千代田区)の邸宅を買収して行なわれた。有栖川宮神道総裁が、所の総裁を兼ねられ、副総裁には元老院議官 岩下方平(いわした ほうへい/みちひら)氏が任ぜられた。皇典講究所は地方に分所を設け、受講者に神職の資格を与えた。