宮中祭祀 歴史
近代以前
中世の順徳(じゅんとく)天皇は、『禁秘抄』(きんぴしょう)で「禁中作法先神事」と述べたように、天皇は肇国(ちょうこく。新しく国家をたてること)以来「神事」を最優先としている。四方拝(しほうはい)などは江戸時代以前から歴代の天皇に引き継がれた行事である。
江戸時代中・後期には水戸学に基づいた尊王論の高まりがあり、新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)など祭祀の再興が盛んになった。
明治期から戦前まで
今日行われている祭祀の多くは、明治維新期に大宝令(たいほうれい)、貞観儀式(じょうがんぎしき)、延喜式(えんぎしき)などを継承して再編された物である。
天皇の「現人神」(あらひとがみ)としての神格化や神仏分離などに合わせて、途絶えていた祭祀の復興や新たな祭祀の創出が行われた。1871年(明治4年)には「神社は国家の宗祀」との太政官布告が出され、1908年には宮中祭祀について定めた皇室祭祀令が皇室令の一つとして制定された。
宮城内の水田では稲作が行われ、昭和天皇以降は自ら田植えをするようになった。収穫された米は供物として、祭祀の際に用いられている。
戦後
1945年(昭和20年)に日本が敗戦し、戦後の連合国軍司令部による統治の下で、宮内省は宮内府・宮内庁へと移行される。また、国政と切り離されていた旧皇室典範は日本国憲法施行に合わせて廃止され、全面的に改定された皇室典範は一般法の一つとなった。
これに合わせて、皇室祭祀令など戦前の皇室令も、一旦全て廃止されたものの、宮内庁は内部通牒を出し、「新たに明文の規定がなくなった事項については、旧皇室令に準じて実施すること」を確認している。