八幡神 歴史 明治以降


明治元年(1868年神仏分離令によって、全国の八幡宮は神社へと改組されたのに伴って、神宮寺(じんぐうじ)は廃され、本地仏や僧形八幡神の像は撤去された。また仏教的神号の八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)は明治政府によって禁止された。宇佐八幡宮石清水八幡宮放生会は、それぞれ仲秋祭(ちゅうしゅうさい)石清水祭(いわしみずさい)へと改めさせられた。鶴岡八幡宮は現在でも6月に蛍放生祭、平成16年(2004年)からは加えて9月に鈴虫放生祭と年2回実施している。



しかし神仏分離後も八幡大菩薩の神号は根強く残り、第二次世界大戦末期の陸海軍の航空基地には「南無八幡大菩薩」の大幟が掲げられたり、「八幡空襲部隊(八幡部隊)」を名乗った部隊もあった。また、航空機搭乗員(特に特攻隊員)の信仰を集めたりもした。1944年に製作された、航空機搭乗員を描いた映画「雷撃隊出動」の中でも、出撃の際に八幡大菩薩の旗を振るシーンが見られる。



平成4年(1992)、東寺(教王護国寺)京都市南区)は、明治元年(1868)年に焼亡していた境内摂社(せっしゃ)鎮守八幡宮を124年ぶりに再建、本尊は「空海が自ら彫ったと伝えられ」る「僧形八幡神」である。



石清水八幡宮宮司全国八幡宮連合総本部長、神社本庁総長(=代表役員)である田中恆清(たなか つねきよ)は神仏習合の復活に積極的にとりくみ、平成17年(2006年)には、発起人の1人として「明治維新以前の神仏同座、神仏和合の精神の復活を目指」す「神仏霊場会」の立ち上げに関与、後には同会の「会長」に就任、会長として「神仏和合」が「わが国本来の信仰の姿」だと語っている。



現在、いくつかの八幡宮では、希望する参拝者に「八幡大菩薩」の墨書きのご朱印を授与している。