八幡神 歴史


八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される。八幡神社の祭神は応神天皇だが、上述の八幡三神を構成する比売神、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀(ちゅうあい)天皇とともに祀っている神社も多い。



八幡」の文字が初めて出てくるのは『続日本紀天平9年(737年)で、読み方を同書天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記(にほんりょういき)の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』第22帖玉蔓(たまかずら)の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。



「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「(はた)」を意味する言葉とみられる。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる。



八幡神は北九州豪族国造宇佐氏の氏神として宇佐神宮(うさじんぐう)に祀られていたが、数々の奇端を現して大和朝廷の守護神とされた。歴史的には、託宣(たくせん)をよくする神としても知られる。



748年(天平20)9月1日、八幡神は出自に関して「古へ吾れは震旦国(中国)の霊神なりしが、今は日域(日本国)鎮守の大神なり」(『宇佐託宣集』巻二、巻六)と託宣している。しかし、「逸文」『豊前国風土記』に、「昔、新羅国の神、自ら度り到来して、此の河原〔香春〕に住むり」とある。「辛嶋勝(からしまのすぐり)姓系図」によると素戔嗚尊(スサノオ)とその息子の五十猛神(イソタケル)の子孫であり、天照大神とは親戚にあたる。素戔嗚尊(スサノオ)は日本で生まれてその後に中国や朝鮮に追放されて日本に帰ってきた。さらに三韓征伐前から弁韓(べんかん)などは日本の領土だったことを考えると矛盾はしない。素戔嗚尊(スサノオの子孫である大国主命などが一緒に信仰されている事があるのはそういうわけである。また新羅は古くは辰韓(しんかん)もしくは秦韓(しんかん)と呼ばれ、辰韓人は中国大陸から朝鮮半島南東部に移住してきたとの史書の記述もあるため(「魏書辰韓伝」『三国志』(3世紀後半)、「辰韓伝」『後漢書』(432年)、「新羅伝」『北史』(659年))、中国から朝鮮半島を経由してきた。その後に彼らは秦氏の祖先の弓月君(ゆづきのきみ)らと共に日本に難民受け入れを申請し、数多くの秦氏が応神天皇の時期に日本の保護の元で日本に帰化している。