山王神道 歴史 山王一実神道


徳川家康につかえていた江戸時代の僧・天海は、家康の没後、山王神道説をもとに山王一実神道(さんのういちじつしんとう)へと発展させ、山王一実神道に依拠して家康の霊を権現(東照大権現)の神号(しんごう)で祀ることを主唱した。山王一実神道では、山王権現とは大日如来であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)であると説いた。これには伊勢神道の影響も見られる。




元和(げんわ、げんな)2年(1616年)4月17日、徳川家康は駿府城で死亡し、柩は久能山に運ばれ、19日に吉田神道の流儀で埋葬されたが、元和3年(1617年)に日光へ柩が移され、天海により山王一実神道の流儀で祀られることとなった。同年4月4日、柩は、日光の座禅院に、次いで8日には奥院へと移され、天海により五眼具足(ごげんぐそく)の印と真言が伝授され、11日後には塔柱灌頂鎮座深秘式、三種神器秘印明が修された。こうした儀式は、天皇の即位灌頂の際の秘儀と同一とされ、家康が日光で天皇と同等かそれ以上の神霊として祀られたことを意味するとされる。家康の墓所には東照宮が建立され、天海は薬師如来の垂迹である、東照大権現の由来を記した『東照大権現縁起』を編纂した。



江戸幕府は、幕府を開いた徳川家康が天海から東照大権現の位を受けたことなどにより、家康を神格化して、徳川という新しい家系の地位を安定させたとされる。だが、天海の主張により、山王一実神道によって家康が祀られたにも関わらず、家康や日光への崇敬は別として、山王神道そのものは、江戸幕府の将軍から厚遇を受けることはなかったとされる。そして、山王神道は、江戸時代の神仏習合の神道の中では最も活動的であったのに、近代の神道の諸派と互角に競う力も持てなかったとされる。このことは、江戸幕府が宗教をさほど重視しておらず、特に神道については、幕府の主要な関心事とならず、二次的地位であったことを示しているといわれる。



また、乗因(じょういん)は、比叡山で山王一実神道を修し、『山家要略記』を伝授された後、信州の戸隠にて、忌部神道や『旧事大成経』(くじたいせいきょう)の教義を取り込んで、修験道の一派である一実霊宗神道(いちじつれいしゅうしんとう)を開き、信州の住民に支持された。だが、乗因は天台宗内部で異端として訴えられ、八丈島に流され、そこで亡くなった。後に、乗因は恩赦されるが、この事件は神道の問題ではなく天台宗の内部の問題で終わったとされる。



山王神道が天台宗によって厳しく統制されていたことも指摘されるが、このことについては、上述の乗因のような「異端」の教義が一時的に隆盛したことと矛盾するように思われ、また、山王一実神道を開いた天海もどちらかといえば「異端」といえる存在であり、このように異端とされる存在が多く台頭する以上、天台宗による統制が厳しかったとはいえないのではないか、という反論もある。