山王神道 歴史


最澄が入して天台教学を学んだ天台山国清寺(てんだいさん こくせいじ)では、霊王(れいおう)の王子晋(おうじしん)が神格化された道教地主山王元弼真君(じぬしさんのうげんひつしんくん)鎮守神(ちんじゅがみ)として祀られていた。唐から帰国した最澄は、天台山国清寺に倣って比叡山延暦寺地主神として日吉山王権現を祀った。音羽山(おとわやま)の支峰である牛尾山(うしおざん)は、古くは主穂(うしお)山と称し、家の主が神々に初穂を供える山として信仰され、日枝山(比叡山)の山岳信仰の発祥となった。また、古事記には「大山咋神。亦の名を山末之大主神。此の神、近淡海国(近江国)の日枝山に座す。また葛野(かどの)松尾に座す。」との記載があり、さらには三輪山神体とする大神神社(おおみわじんじゃ)から大己貴神(オオナムチノカミ)和魂(にぎみたま)とされる大物主神(おおものぬしのかみ)が日枝山(比叡山)に勧請された。

山王神道の始まりは、貞応(じょうおう)2年(1223年)成立の『耀天記』(ようてんき)の「山王事」に記載がある本地垂迹説であるとされ、この段階では、山王神道の教理はまだ稚拙であったとされる。なお、「山王事」の成立時期には諸説があるという。その後、鎌倉時代の後期に入り、伊勢神道の刺激を受け、思想が発達し、組織化も進んでいく中で、義源が『山家要略記』を編纂し、教説を集成したとされる。




山王神道の教学形成において、『山家要略記』の編纂が大きな役割を果たしたとする見解は、ほぼ定説のようになっている。だが、『山家要略記』以前に既に山王神道の教説はできあがっていたとする説も多い。



たとえば、戒家の文献にみられるように、義源の前に既に山王神道の教理はほぼ形成されており、記家の文献も豊富となっていたとする説もある。また、慈円に密教思想がみられることから、山王神道の教理形成に慈円が大きな役割を果たしたとする指摘もある。 このほか、中世に唱えられたとされる山王の受戒説の始まりが、正暦(しょうりゃく)4年(993年)の比叡山分裂以前にみられるとする説もある。

いずれにせよ、『山家要略記』は山王神道の教本としては非常に大きな存在と認識されており、その成立以前の教理がどのように形成され、どのように発展していったかを考察することが、義源の編纂事業をどう評価するかにつながるとされる。