八瀬童子 来歴
弘文(こうぶん)天皇元年(672年)の壬申の乱の際、背中に矢を受けた大海人皇子(おおあまのおうじ。後の天武天皇)がこの地に窯風呂を作り傷を癒したことから「矢背」または「癒背」と呼ばれ、転じて「八瀬」となったという。この伝承にちなんで後に多くの窯風呂が作られ、中世以降、主に公家の湯治場として知られた。歴史学的な見地からは大海人皇子に関する伝承はほぼ否定されており、八瀬の地名は高野川流域の地形によるものであるとされている。
比叡山諸寺の雑役に従事したほか天台座主(てんだいざす)の輿を担ぐ役割もあった。また、参詣者から謝礼を取り担いで登山することもあった。また、比叡山の末寺であった青蓮院(しょうれんいん)を本所として八瀬の駕輿丁や杣伐夫らが結成した八瀬里座の最初の記録は寛治(かんじ)6年(1092年)であり、記録上確認できる最古の座と言われている。
延元(えんげん)元年(1336年)、京を脱出した後醍醐天皇が比叡山に逃れる際、八瀬郷13戸の戸主が輿を担ぎ、弓矢を取って奉護した。この功績により地租課役の永代免除の綸旨(りんじ。蔵人が天皇の意を受けて発給する命令文書)を受け、特に選ばれた者が輿丁として朝廷に出仕し天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐことを主な仕事とした。