日本の山岳信仰


日本の古神道においても、水源・狩猟の場・鉱山森林などから得られる恵み、雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から、や森を抱く山は、神奈備(かんなび)という神が鎮座する山とされ、御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、時として磐座(いわくら)・磐境(いわさか)という常世(とこよ・神の国や神域)と現世(うつしよ)の端境として、祭祀が行われてきた。また、死者祖霊。それい)が山に帰る「山上他界(さんじょうたかい)という考えもある(この他は海上他界、地中他界など)。これらの伝統は神社神道にも残り、石槌山(いしづぢさん、いしづちやま)諏訪大社(すわたいしゃ)三輪山(みわやま)のように、山そのものを信仰している事例もみられる。農村部では水源であることと関連して、になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという信仰もある。日本人ではないが、カールブッ瀬の詩「山の彼方の空遠く、幸い住むと人のいう」という言葉が、日本人の山岳信仰の信仰観を表しているだろう。


また仏教でも、世界の中心には須弥山(しゅみせん)という高い山がそびえていると考えられ、空海高野山を、最澄比叡山を開くなど、山への畏敬の念は、より一層深まっていった。平地にあっても仏教寺院が「○○山△△寺」と、山号(さんごう)を付けるのはそのような理由からである。


チベット仏教でも聖なる山は信仰の対象であるが、信仰は山自体に捧げられ、その山に登るのは禁忌とされる場合が多い。一方で日本では、山頂に達することが重要視されるのは注目すべきである。日本人の場合、山自体を信仰する気持ちももちろんあるのだが、そこから早朝に拝まれるご来光を非常にありがたがる傾向が強く、山頂のさらにその先(彼方)にあるもの(あの世)を信仰していることが原因であろう。日本ではアニミズムとしての太陽信仰と山岳信仰が結びついているのである。





その後、密教道教の流れをくんだ修験者山伏たちが、俗世との関わりを絶ち、悟りを開くために山深くに入り修行を行った。これは、後に修験道や呪術的宗教などを生み出している。