那智参詣曼荼羅 起源と作製主体 那智参詣曼荼羅の行方


しかしながら、江戸時代に入ると、那智参詣曼荼羅は次第に簡略化され、那智山を描いた絵図それ自体が簡便な刷り物として普及する傾向が生じた。那智山を描いた近世の絵図の例として、「那智山図」(『紀伊続風土記(きいぞくふどき/きいしょくふどき)所収)や「日本第一熊野那智御山絵図」(『扶桑探勝図』所収)がある。那智参詣曼荼羅と那智山図を比較してみると、視点が決定的に相違する。すなわち、前者が俯瞰的に見上げる視線によって那智山を描いているのに対し、後者は鳥瞰図的に高い視点から見下ろすように描いており、聖地への視線の変化を示すものとして重要である。また、那智山図には那智浜や浜の宮王子は描かれるものの、渡海船も補陀洛寺も描かれず、補陀洛渡海にまつわる装置が登場しなくなる。補陀洛渡海はもはや宗教的感動をもたらさなくなったものと考えられ、那智山図自体も、今日における観光地図の類として受容されていたと見られる。画法においても、泥絵具によるとはいえ色彩豊かであった那智参詣曼荼羅に対し、那智山図などは黒一色木版刷である。近世以降になって作製された「熊野三山参詣曼荼羅」もやはり、宗教的雰囲気が感じ取られない。また、日本第一熊野那智御山絵図では略縁起が文字で書き込まれ、肉声による絵解きも姿を消している。聖地であるはずの那智山を描く絵図は、ここではもはや、総体として山絵図と呼ぶべき世俗的絵画に変質し、宗教性を失っている。のみならず、熊野比丘尼の地方定着の進む17世紀半ば以降に、那智参詣曼荼羅は人々の関心を惹かなくなり、熊野観心十界曼荼羅に絵解きの対象の比重が移ってゆく。幕藩体制下での寺請制による檀家制度の展開とともに、那智山の本願の展開を支えた山伏・比丘尼が地方に定着してゆき、次第に熊野や那智山との関係が希薄化させてゆくにつれ、那智参詣曼荼羅は参詣者を勧誘する勧進活動のための道具としての性格を失い、唱導活動の道具ないしそれ自身が信仰の対象となって、変質を遂げてゆく。遊女化した熊野比丘尼に厳しい視線が向けられるようになるのは17世紀末のことである。



那智参詣曼荼羅の作製が始まった時期は16世紀末以前に遡ると考えられているが、この時期はまた、那智七本願の確立期でもある。他方で、那智参詣曼荼羅が人々の関心を失う近世、特に17世紀半ば以降は、社家の反撃により、那智七本願を含めた熊野三山の本願の地位が否定され、社内の地位から排除された時期であった。社寺参詣曼荼羅として知られる絵図の中でも、那智参詣曼荼羅の作例の約30例という遺存数は突出した数であり、あっておかしくないはずの本宮や新宮の参詣曼荼羅が遺存しないことから見ても、際立って多数が発注・作製されたと考えられている。ひとつには絵画化の材料となるべき縁起・伝説・説話・霊験譚といった類のものに那智山が富んでいたことによる。だが、他方では、衰退しつつも那智七本願が中世末期から近世まで一貫して本願所としての活動を継続しようとしたため、その財源を得るための勧進活動用に那智参詣曼荼羅を必要としたためと推定されている。そうした意味で言えば、那智参詣曼荼羅とは、那智七本願の盛衰や社会的地位と軌を一にする絵画だったのである。