社寺参詣曼荼羅の空間構成 霊場と参詣道の図像 ①
霊場が霊場であることの条件のひとつとして不変性があり、霊場と霊場に至る参詣道はしばしば今日に至るまでそのまま残されている場合さえある。霊場の不変性は理念的にそうであるというだけでなく、寺社が戦乱のような人災や落雷・豪雨のような自然災害によって損なわれると、あるべき理想の姿の復元を目指して再興が企図される。このように霊場が過去も現在も変わらぬ姿を保っているという意味において、参詣曼荼羅はかなり正確に作られている。このように霊場の不変性という思想に従えられている限りにおいて、霊場の描写は作成当時の姿を描いているとは限らず、過去あるいは未来の理想としての姿を描いている場合がある。
例えば那智参詣曼荼羅に描かれる青岸渡寺(せいがんとじ)は、織田信長の兵火にあって焼失した後、天正(てんしょう)15年(1735年)6月に現在地に柱立を行っている。しかし、那智参詣曼荼羅の図像は変更されることは無く、天正15年6月以前の位置に青岸渡寺は描かれ続けた。清水寺参詣曼荼羅では五条橋に同種の描写がなされている。清水寺参詣曼荼羅として伝来する2つの作例は16世紀半ばから後半からにかけての作と見られている。同時期の洛中洛外図の各種の伝本には五条橋は大振りの橋脚を持った姿で描かれる一方、清水寺参詣曼荼羅のいずれの作例においても五条橋は赤い欄干と金の擬宝珠(ぎぼし、ぎぼうしゅ)を持つ姿で描かれており、あるべき理想的な姿として表現されている。寺外の事物であるにもかかわらず、五条橋は現実よりはるかに美化されているというだけでなく、大きなスペースを与えられて描かれている。これは、洛中洛外の境界であることや清水寺参詣の出発点であるということもさりながら、清水寺本願たる成就院がその維持・管理にあたっており、特別な意味を持っていたためであろう。このように、霊場の描写は、霊場の不変性を原則としているのであるのである。しかしながら、このように不変の姿で描かれるのは、あくまでも霊場にとって本来の姿において存在した地物に限られている。清水寺参詣曼荼羅に描かれている朝倉堂は、清水寺再建を担うために後から入ってきた本願の堂舎であって、今日とは立地も堂舎の姿も異なっており、不変の姿を保った訳ではなかった。