五輪塔 歴史 ②
石造五輪塔が一般的に造立されるようになったのは鎌倉時代以降で、以後、室町時代、江戸時代を経て現在に至るまで供養等や墓碑として造塔され続けており、現存するもの以外に考古遺物とし出土するものがある。
初期の五輪塔の普及の要因としては、高野聖(こうやひじり)による勧進の影響といわれる。平安末期に「五輪九字明秘密釈」「ごりんくじみょうひみつしゃく)を著した覚鑁(かくばん)も元は高野聖といわれる。高野聖による五輪塔による具体的な勧進としては、五輪塔の形をした小さな木の卒塔婆に遺髪や歯などを縛り寺に集め供養する。
真言律宗の僧 叡尊(えいそん)や忍性(にんしょう)も五輪塔の普及に係わったとされる。
鎌倉時代の奈良東大寺(とうだいじ)再建にあたり、重源(ちょうげん)に招かれ宋より日本に渡り、日本に石の加工技術を伝え、後に日本に帰化した石大工 伊行末(い・ゆきすえ)の子孫で伊派(いは)といわれる石工集団や、忍性と共に関東へ渡った伊派の分派大蔵派(おおくらは)といわれる石工集団が、宋伝来の高度な技術で石塔などの製作を行った。それまで加工の容易な凝灰岩を使った石造五輪塔が一般的だったのに対し、鎌倉期以降花崗岩など硬質の石材を使ったものが多くなるのはこのためと考えられる。伊派や大蔵派が中心になり鎌倉時代以降に作られた五輪塔の形を後に鎌倉型という。また地輪を受ける基礎石の上面に返花座(かえりばなざ)を刻みだしたものを大和式と呼び、これは大和地方から山城南部辺に鎌倉末期から南北朝期にかけての優品が残る。
代表的なものには、当麻(たいま)北墓五輪塔、岩清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)にある航海記念塔(高さ6メートル)や岩船寺(がんせんじ)塔(高さ2.35メートル)などがある。三角五輪塔では奈良市三笠霊園内の伴墓(ともばか)五輪塔(伝重源墓塔)がある(以上いずれも重要文化財)。