宝篋印塔 構造


最上部の棒状の部分は相輪と呼ばれる。相輪は、頂上に宝珠をのせ、その下に請花(うけばな)、九輪(宝輪)、伏鉢などと呼ばれる部分がある。相輪は宝篋印塔以外にも、宝塔多宝塔層塔(そうとう)などにも見られるもので、単なる飾りではなく、釈迦の遺骨を祀る「ストゥーパ」の原型を残した部分である。相輪の下には露盤と階段状の刻み(普通は6段)を持つ笠があり、この笠の四隅には隅飾(すみかざり)あるいは「耳」と呼ばれる突起がある。笠の下面も階段状(2段)に刻む。笠の下の四角柱の部分は、塔身(とうしん)という。その下の部分は基礎と呼ばれ、上部を階段状(2段)に刻んで塔身を受ける。隅飾の内側の曲線を二弧ないし三弧に刻むものもあり、またその側面に月輪を陽刻し、その中に種子(しゅじ、種子字とも)を刻むものもある。塔身にはしばしば仏坐像や月輪に囲われた種子を刻む。手の込んだものではその月輪をさらに蓮華座で受ける。また基礎の四方の側面には区画の中に格狭間(こうざま)を一個刻む例が多い。さらに基礎石の下に格狭間を伴った反花座を置くものもある。なお特に高位者の墓塔では壇上積みの石段を伴うものがある(醍醐三宝院(さんぼういん)墓地宝篋印塔など)。



この塔身部に四角の輪郭が刻まれず、基礎部の区画も無いか若しくは一区のものが関西形式と呼ばれる基本の型である。塔身に四角の輪郭を刻み基礎部も縁どりにより二区に分け、さらに基礎を輪郭付きの二個の格狭間を伴った返花座(かえりばなざ)で受けるものは関東形式と呼ばれる。名称の通り、関東形式は関東地方に多く分布するが、関西形式は基本形として国内に広く分布する。「関東形式」の命名者 川勝政太郎(かわかつ まさたろう)は、この関東形式の出現の契機となったのが神奈川県箱根にある関西形式の「箱根山宝篋印塔(多田満仲(ただ みつなか)塔)」と推定しており、この塔の塔身は周囲に細めの輪郭を巻きその中央に釈迦座像(正面)と種子(側面と背面)を刻んでいる。ただし基礎周囲各面には格狭間を一個だけ刻む。この塔は律宗の僧に従って関東に赴いた大和の石工によって作製されている。



宝篋印塔の基本形式は、以上の通りであるが、時代・地方により、多少の違いが見られる。例えば頂上部の宝珠については、時代が下るとともに、膨らみが失われ、室町期・江戸期を通して先端が尖っていくという特徴がある(この特徴は宝珠全体のもので、先述の五輪塔・宝塔・石灯籠(いしどうろう)擬宝珠(ぎぼうしゅ、ぎぼし)においても同様である)。隅飾は、同じように時代が下るごとに、外側へ張り出す傾向があり、江戸期には極端に反り返る隅飾になった。基礎部下の基壇も、次第に返花座などの飾りをもたない方形石の基壇となる。基礎石の格狭間の中に、開蓮華(かいれんげ)、三茎蓮(さんけいれん)、孔雀像などを刻むものを特に「近江式文様」と呼び、鎌倉後期以降の優品が近江から京都にかけて多数遺る(「近江式」は層塔の基礎石格狭間などに三茎蓮などを刻む場合もいう)。通常、笠は階段状に刻むが、まれに上部を宝形造りに刻むものがある。これは奈良県北部を中心に見られる地方色である(「大和式」と呼ぶ場合もある)。また、塔身・基礎部の大きさの違いをはじめ、塔身に方角に対応した仏の種子や像のレリーフを刻む、二重輪郭をとるなど、塔によって様々な形態がある。このほか特殊な例として笠を3重に重ねた三重宝篋印塔が数例遺る(石山寺(いしやまでら)三重宝篋印塔ほか)。さらに、残欠でしか残らないため詳細は不明だが、笠部が六角の重層宝篋印塔も造られた。