他力本願 用法 ①
「他力本願」のうち、「他力」とは他人の力をあてにすることではなく阿弥陀如来の力を現す言葉であり、「本願」とは人間の欲望を満たすような願いのことではなくあらゆる人々を仏に成らしめようとする願いのことである。
「正信偈」(しょうしんげ)に
彌陀佛本願念佛 邪見憍慢惡衆生 信樂受持甚以難 難中之難無過斯
(訓読) 弥陀仏の本願念仏は 邪見憍慢の悪衆生 信楽受持すること 甚だ以って難(かた)し 難の中之(の)難 斯(これ)に過ぎたるは無し
と述べ、「邪見」(じゃけん。真実に背いたよこしまな考え方)や「憍慢」(きょうまん。自ら思い上がり、他を見下して満足する心)の心にとりつかれている私たちを「悪衆生」とし、その悪衆生が、本願の念仏を素直に喜び、いただき続けていくことは、「邪見」や「憍慢」が妨げとなり、はなはだ困難であり、困難なことの中でも、最も困難なことであって、これに過ぎた困難はない、つまりこれ以上の困難はないと述べている。そして親鸞は、「正信偈」の上記部分に続く「依釈段」で七高僧(しちこうそう)の教えを説き、このような悪衆生たる私たちだからこそ、自らの力による修行によらない、阿弥陀仏の本願による他力の信心が、私たちに差し向けられていて、また本願にかなうとしている。
浄土教ことに浄土真宗の見解としては、縁あって修行の実践により自らの力で悟りを開こうとする人(難行道(なんぎょうどう)・聖道門(しょうどうもん)を選ぶ人、修行仏教)や、その教義を否定するものではない。しかし自らの力で悟りを開こうとすることは、不可能に近いくらい難しいと捉える。