興禅護国論 著述の経緯と目的
建久2年(1191年)、2度目の渡宋を終えて南宋より帰国した栄西は、九州地方北部において、聖福寺(しょうふくじ。福岡市博多区)をはじめ、徳門寺(とくもんじ。福岡市西区宮浦)、東林寺(とうりんじ。福岡市西区宮浦)、誓願寺(せいがんじ。福岡市西区今津)、報恩寺(ほうおんじ。福岡市東区香椎)、龍護山千光寺(りゅうござん せんこうじ。福岡県久留米市)、智慧光寺(ちえこうじ。長崎県高来群)、龍灯山千光寺(りゅうとうざん せんこうじ。長崎県平戸市)、狗留孫山修善寺(くるそんざん しゅぜんじ。山口県下関市)などを構えて禅の普及に尽力したが、建久5年(1194年)7月5日、日本達磨宗の大日房能忍(だいにちぼう のうにん)らの摂津国三宝寺の教団とともに布教禁止の処分を受けた。
いっぽう筑前国筥崎(はこざき。福岡市東区)の良弁(ろうべん)という人物が、九州において禅に入門する人びとが増えたことを延暦寺講徒に訴え、栄西による禅の弘通(ぐずう。仏教が広く世に行われること)を停止するよう朝廷にも働きかけたため、建久6年には関白の九乗兼実(くじょう かねざね)は栄西を京に呼び出し、大舎人頭(おおとねりのかみ)の職にあった白河仲資(しらかわ なかすけ)に「禅とは何か」を聴聞させ、大納言の葉室宗頼(はむろ むねより)に対してはその傍聴の任にあたらせた。しかし、京の世界にあっては禅を受容することは難しいものと判断された。
そこで、明菴栄西によって、禅に対する誤解を解き、最澄(伝教大師)の開いた天台宗の教学に背くものではないとして禅の主旨を明らかにしようとして著されたのが本書である。九州で著されたと考えられる。栄西は、禅を興すことは王法護国をもたらす基礎となるべきものであるという自身の主張から、経典『仁王護国般若波羅蜜多経』の題号により『興禅護国論』と命名した。