三尸 変遷


道教では、からの時代にかけてほぼ伝承として固定化された。『抱朴子(ほうぼくし)の三尸には特に3体であるという描写は無く、のちに三尸という名称から3体存在すると考えるようになったのではないかともいわれている。



『瑯邪代酔篇』(ろうや だいすいへん)など、庚申のほかに甲子(きのえね)(あるいは甲寅(きのえとら))の日にも三尸が体から抜け出るという説をのせている書籍も中国にはある。庚申と甲子は道教では北斗七星のおりてくる日とされており、関連があったとも考えられる。



日本で庚申待(こうしんまち)と呼ばれるものは中国では「守庚申」(しゅこうしん)「守庚申会」(しゅこうしんえ)と言われており、仏教と結びついての時代の中頃から末にかけて広がっていったと考えられる。平安時代貴族たちの間で行われていたものは中国の「守庚申」にかなり近いものであった。の時代にかけては行事の中での三尸や道教色は薄れて観音への信仰が強く出ていった。