唯心と唯識
「華厳経」では「唯心」(ゆいしん)という。また「唯識論」では「唯識」という言い方をする。その違いは何であろうか。
『華厳経』では、「集起の義」(じゅうきのぎ)について唯心という。『華厳経』は、覚った仏の側から述べているので、すべての存在現象が、そのままみずからの心のうちに取り込まれて、全世界・全宇宙が心の中にあると言うのである。そこで、すべての縁起を集めているから「集起の義」について唯心と言うのである。
唯識論では、「了別の義」(りょうべつのぎ)について唯識という。唯識では凡夫(ぼんぷ。われわれ普通の人間)の側から述べているので、人間のものの考え方について見ていこうとしている。すべての存在現象は人間が認識することによって、みずからが認識推論することのできる存在現象となりえているのであるから、みずからが了承し分別しているのである。そこで「了別の義」について唯識というのである。心ではなく、識としているのは、それぞれの了別する働きの体について「識」としているのであって、器官ではない。器官は存在現象しているものであるからである。
しかし、唯心といっても、唯識と言っても、その本質は一つである。詳しく分けて論ずれば、「唯心」の語は、修行する段階(因位)にも悟って仏になった段階(果位)にも通じるが、「唯識」と称するときには、人間がどのように認識推論するかによるので、悟りを開く前の修行中の段階(因位)のみに通用する。「唯」とは簡別の意味で、識以外に法(存在)がないことを簡別して「唯」という。「識」とは了別の意味である。了別の心に略して3種(初能変、第二能変、第三能変)、広義には8種(八識)ある。これをまとめて「識」といっている。