唯識 識の転変 三性(さんしょう) 


以上の如く、般若経の段階では三性としてまとめて整理記述しているわけではない。時代を下って『解深密経』(げじんみっきょう。玄奘訳)を待って初めて、諸法に三種の相があると説く。これは法が三種類あるということではなく、法は見る人の境地によって三通りの姿かたちが顕れているということである。




謂く、諸法の相に略して三種有り。

何等か三と為すや。

一者は遍計所執相、二者は依他起相、三者は円成実相なり。


云何が諸法の遍計所執相なるや。

謂く、一切法の名、仮安立の自性差別なり、乃至言説を随起せ令むるが為なり。


云何が諸法の依他起相なるや。

謂く、一切法の縁の生ずる自性なり。則ち此れ有るが故に彼れ有り。此れ生ずる故に彼れ生ず。

謂く、無明は行に縁たり、乃至純大の苦蘊を招集す。


云何が諸法の円成実相なるや。

謂く、一切法平等の真如なり。此の真如に於て諸の菩薩衆、勇猛・精進を因縁と為すが故に、如理の作意・無倒の思惟を因縁と為すが故に、乃ち能く通達す。此の通達に於て漸漸に修集し、乃至無上正等菩提を方(ま)さに証すること円満なり


— 一切法相品第四




相は性による、という間接的な表現となっているが、唯識の論書では、遍計所執性、依他起性、円成実性の三性という表現になり、精緻な論が展開されるようになる。



三性のなかで、第一の遍計所執性はその性格からみて、すでに無存在である。つぎに依他起性は、自立的存在性を欠くから、やはり空である。また、同じ依他起性は存在要素の絶対性としては、第三の円成実性である。そして、どういう境地においても、真実そのままの姿であるから真如(しんにょ)と呼ばれる。その真如は、とりもなおさず「ただ識別のみ」という真理である。これを自覚することが、迷いの世界からさとりの世界への転換にほかならない。



しかし、実践の段階において、「ただ識別のみ」ということにこだわってはならない。認識活動が現象をまったく感知しないようになれば、「ただ識別のみ」という真理のなかに安定する。なぜなら、もし認識対象が存在しなければ、それを認識することも、またないからである。それは心が無となり、感知が無となったのである。それは、世間を超越した認識であり、煩悩障ぼんのうしょう。自己に対する執着)・所知障しょちしょう。外界のものに対する執着)の二種の障害を根絶することによって、阿頼耶識が変化を起こす(転識得智=てんじきとくち)。これがすなわち、汚れを離れた領域であり、思考を超越し、善であり、永続的であり、歓喜に満ちている。それを得たものは解脱身(げだつしん)であり、仏陀の法と呼ばれるものである(大円鏡智=だいえんきょうち)。