唯識 成立と発展 中国・日本への伝播
中国からインドに渡った留学僧、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は、このナーランダ寺において、護法の弟子 戒賢(かいけん。シーラバドラ、śīlabhadra)について学んだ。帰朝後、『唯識三十頌』に対する護法の註釈を中心に据えて、他の学者たちの見解の紹介と批判をまじえて翻訳したのが『浄唯識論(じょうゆいしきろん)』である。
そして、この書を中心にして玄奘の弟子の慈恩大師 基(き。もしくは窺基=きき)によって法相宗(ほっそうしゅう)が立てられ、中国において極めて論理学的な唯識の研究が始まった。実質的な開祖は基であるため、法相宗では玄奘を鼻祖(びそ)と呼び分けている。その後、玄奘の訳経と知名度等により中国の法相宗は隆盛し、その結果、真諦の訳した論書を基に起こった地論宗(じろんしゅう)や摂論宗(しょうろんしゅう)は衰退することとなった。
その後、法相宗は道昭(どうしょう)・智通(ちつう)・智鳳(ちほう)・玄昉(げんぼう)などによって日本に伝えられ、奈良時代さかんに学ばれ南都六宗(なんとろくしゅう)のひとつとなった。その伝統は主に奈良の興福寺(こうふくじ)・法隆寺(ほうりゅうじ)・薬師寺(やくしじ)、京都の清水寺(きよみずでら)に受けつがれ、江戸時代にはすぐれた学僧が輩出し、倶舎論(くしゃろん)とともに仏教学の基礎学問として伝えられた。唯識や倶舎論は非常に難解なので「唯識三年倶舎八年」という言葉もある。明治時代の廃仏毀釈により日本の唯識の教えは一時非常に衰微したが、法隆寺の佐伯定胤(さえき じょういん)の努力により復興した。法隆寺が聖徳宗(しょうとくしゅう)として、また清水寺が北法相宗(きたほっそうしゅう)として法相宗を離脱した現在、日本法相宗の大本山は興福寺と薬師寺の二つとなっている。