唯識 識の相互作用と悟り


唯識は語源的に見ると、「ただ認識のみ」という意味である。


心の外に「もの」はない

大乗仏教の考え方の基礎は、この世界のすべての物事は縁起(えんぎ)、つまり関係性の上でかろうじて現象しているものと考える。唯識説はその説を補完して、その現象を人が認識しているだけであり、心の外に事物的存在はないと考えるのである。これを「唯識無境」(「境」は心の外の世界)または唯識所変の境ゆいしきしょへんのきょう。外界の物事は識によって変えられるものである)という。また一人一人の人間は、それぞれの心の奥底の阿頼耶識の生み出した世界を認識している(人人唯識。にんにんゆいしき)。他人と共通の客観世界があるかのごとく感じるのは、他人の阿頼耶識の中に自分と共通の種子(倶有の種子 くゆうのしゅうじ)が存在するからであると唯識では考える(これはユング集合的無意識に似ていなくもない)。



阿頼耶識と種子のはたらき

人間がなにかを行ったり、話したり、考えたりすると、その影響は種子(しゅうじ、阿頼耶識の内容)と呼ばれるものに記録され、阿頼耶識のなかにたくわえられると考えられる。これを薫習(くんじゅう)という。ちょうど香りが衣に染み付くように行為の影響が阿頼耶識にたくわえられる(現行薫種子 げんぎょうくんしゅうじ)。このため阿頼耶識を別名蔵識(くらしき)一切種子識とも呼ぶ。阿頼耶識の「阿頼耶」(ālaya)は「蔵」という意味のサンスクリット語である。さらに、それぞれの種子は、阿頼耶識の中で相互に作用して、新たな種子を生み出す可能性を持つ(種子生種子 しゅうじしょうしゅうじ)。


また、種子は阿頼耶識を飛び出して、末那識・意識に作用することがある。さらに、前五識(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)に作用すると、外界の現象から縁を受けることもある。この種子は前五識から意識・末那識を通過して、阿頼耶識に飛び込んで、阿頼耶識に種子として薫習される。これが思考であり、外界認識であるとされる(種子生現行 しゅうじしょうげんぎょう)。このサイクルを阿頼耶識縁起(あらやしきえんぎ)と言う。



最終的には心にも実体はない

このような識の転変は無常であり、一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅 せつなめつ)ものであり、その瞬間が終わると過去に消えてゆく。


このように自己と自己を取り巻く世界を把握するから、すべての「物」と思われているものは「現象」でしかなく、「空」であり、実体のないものである。しかし同時に、種子も識そのものも現象であり、実体は持たないと説く。これは西洋思想でいう唯信論とは微妙に異なる。なぜなら心の存在もまた幻のごとき、夢のごとき存在()であり、究極的にはその実在性も否定されるからである(境識倶泯。きょうしきぐみん)。


単に「唯識」と言った場合、唯識宗(法相宗)・唯識学派・唯識論などを指す場合がある。