日本における唱導 影響
「説経」は、しばしば説経唱導とも呼ばれ、伴奏楽器を鳴らし、あるいは踊りをともなったりして説経節(せっきょうぶし)や説経浄瑠璃などとして芸能化していくが、「唱導」は必ずしもただちに芸能化せず、説教(法話)のかたちでのこったと考えられる。しかし、この説教と説経節・ちょんがれとが結びついて中世の節付説教、さらに近世の節談説教(ふしだんせっきょう)へと発展していった。節談説教は、江戸時代において民衆の娯楽となったいっぽう、浪曲・講談・落語など話芸をはじめとする近世成立の諸芸能の母体となったが、これももともと唱導が音韻抑揚の節をもっていたことに由来すると考えられる。
冒頭に述べたように、唱導そのものは文学でも芸能でもないが、教化の対象が知識・教養に乏しい庶民の場合は、譬喩や因縁など説話の部分が親しみやすいため、そこから文学的な関心が深められていった。こうして生まれたのが「唱導文学」とされる。「唱導文学」の名を初めて用いたのは民俗学者の折口信夫(おりぐち しのぶ)であり、折口自身、「事実において、唱導文学は、説経文学を意味しなければならぬ」と述べたように、唱導文学は芸能としての説経に多大の素材をあたえた。
筑土鈴寛(つくど れいかん)は、1930年(昭和5年)の「唱導と本地文学と」(『国語と国文学』誌所収)において、唱導のテキストである説法資料にふくまれる因縁譬喩譚と『今昔物語集』などに収載される説話とを比較して「説話文学と説経とは真に皮一重である」と論じている。また、後藤丹治(ごとう たんじ)は、『戦記物語の研究』(1936年)において、唱導それ自体が『平家物語』の成り立ちに多大な影響をあたえたことを指摘しており、以来、多くの研究者により「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の冒頭に代表される『平家物語』の美文が安居院流説教の影響を強く受けたものであるという見解が支持されている。