日本における唱導 歴史 安居院流の成立 ①


上述のとおり、唱導の技法の確立は平安末期すなわち院政期文化の時代に求められ、平治の乱で惨殺された信西(しんぜい)の子で天台宗の僧であった澄憲ちょうけん。1126年-1203年)は、その名手として知られた。「富楼那(ふるな)尊者の再誕」「説法の上手」と称された澄憲は、父同様学識深く、その唱導も能弁で、しかも清朗な美声によるものだったため、多くの人びとを惹きつけ、多数の聴衆の感涙をさそったといわれる。九乗兼実(くじょう かねざね)日記玉葉(ぎょくよう)軍記物源平衰退記』などには、澄憲が承安(じょうあん、しょうあん)4年(1174年)の旱魃(かんばつ)の際に祈雨を果たした効験により勧賞に預かったことが記されており、この干魃に際しては同様の効験により醍醐寺(だいごじ)東寺とうじ。教王護国寺)の僧も勧賞されている。澄憲の勧賞について、当時の朝廷内部にはその是非を問う向きもあったが、結果的には、龍神をさえ感応させたとして、唱導が読経修法(しゅほう)とならんで効験あるものと公認されたのであった。



澄憲は安元(あんげん)3年(1177年)に法印(ほういん)に叙せられ「澄憲法印」と称せられたが、のちに京都上京安居院あんごいん。延暦寺竹林院の里坊(さとぼう))に退去して法体のまま妻帯した。この妻帯は世の非難を浴びたが、澄憲はみずからの信念を得意の弁舌で主張し、「女人不浄」を唱える僧徒らに反駁、もって説教一筋の生活に勤めることを世に示した。澄憲の唱導は、台密古来の法華経主義と弥陀本願思想に讃同する浄土真宗によりながら、造寺造仏の功徳を肯定し、諸行往生を説いたうえで一向専修と阿弥陀如来への帰依を説くものであったと考えられる。



澄憲の子の聖覚しょうかく。1167年-1235年)も「舌端玉を吐く」と称されるほどの唱導の名人で、また、法然の高弟としても有名である。説話を多用して身振り手振りよく庶民に訴える唱導が、浄土門の教線拡張の手段として軌道に乗ったのは、聖覚が法然に帰依したことを機縁としている。『選択本願念仏集』において従来の伽藍仏教に決別し、持戒さえも否定してしまった法然は、乱世のなかで動揺するしかない無知文盲の民衆こそ最大の救済対象と唱え、それゆえ称名念仏だけではなく、聴くことによって庶民のこころを直接動かし思想形成をはかる唱導の意義を重視した。こうして説教の日常化が進み、説教自体にも節やリズムを付けるという歌謡性が加えられたのである。