説経節 演目と正本 古説経


現存する説経の正本は、古い順に、



· 『せつきやうかるかや』太夫未詳

寛永8年(1631年)4月刊、しやうるりや喜衛門板


· 『さんせう太夫』説経与七郎

寛永16年(1639年)頃刊、さうしや長兵衛板?


· 『せつきやうしんとく丸』天下無双佐渡七太夫


正保5年(1648年)3月刊、九兵衛板


· 『せつきやうさんせう太夫』天下一説経佐渡七太夫


明暦2年(1656年)6月刊、さうしや九兵衛板



があり、以下、万治元年(1658年)10月刊『熊野之権現記こすいてん』、万治4年(1661年)正月刊『あいごの若』などと続くが、荒木繁(あらき しげる)(国文学)は、明暦2年の『せつきやうさんせう太夫』までが「説経節が本来の語り物としての説経節らしい用語と語り口を保っていた時代」として、これらに「古説経」の名を与えている。初期の説経正本においては『せつきやうかるかや』のように、わざわざ「せつきやう」を付して並行芸能である浄瑠璃ではないということを明示している例が多い。この時期には、演者も「説経与七郎」などというふうに説経の語り手であることを示すことがある。



万治以降、時代を経るにともない、説経節は浄瑠璃の影響をいっそう強く受けるようになり、「説経浄瑠璃」と称されるような変質を遂げる。特に冒頭部分の「本地語り」が失われ、浄瑠璃色の濃い序があらわれるのが顕著な例である。