説経の歴史 操り興行の衰退 江戸・東国


江戸は三都のなかでも説経座が最もさかんであった。正保しょうほう。1644年-1648年)の頃から佐渡七太夫(さど しちだゆう)が堺町(現在の日本橋人形町)で、万治まんじ。1658年-1661年)頃には初代 天満八太夫(てんま はちだゆう)が禰宜町(ねぎまち。現在の日本橋堀留町)で興行をおこなった。



佐渡七太夫の「佐渡」の名は、興行的に成功を収めた地の名に由来するものではないかという説がある。近世初頭にあって、佐渡金山を擁する佐渡島は多数の鉱山労働者が押し寄せ、娯楽の一環としての説経節には興行に対する高い需要があったと推察されるからである。また、天満八太夫は寛文元年(1661年)に受領して「石見掾藤原重信」を名乗っている。佐渡七太夫の方は、2代目が天和てんな。1681年-1684年)の頃に活躍し、3代目の佐渡七太夫豊孝という説経語りは正徳(しょうとく)享保(きょうほう)1711年-1736年)の頃、説経の伝統を守ろうと努めて正本を盛んに刊行した。元禄げんろく。1688年-1704年)の頃、江戸では天満重太夫、武蔵権太夫、吾妻新四郎、江戸孫四郎、結城孫三郎らがをかかげて説経座を営み、江戸における人形操りの最盛期の様相を呈しており、説経太夫としては村山金太夫や大坂七郎太夫の名が知られる。18世紀初頭をすぎると江戸の人形操りは衰退し、享保年間(1716年-1736年)にあらわれた2世 石見掾藤原守重あたりを最後に江戸市中の説経座は姿を消した。佐渡七太夫豊孝の時代はすでに説経節は衰微しており、彼が刊行した正本には説経の古典とも呼ぶべき演目が多くふくまれる。有銭堂清霞(ゆうせんどう せいか)の『東都一流江戸節根元集』によれば、延享えんきょう。1744年-1748年)年間、説経節は江戸や地方の祭礼などでまれにみられる程度となってしまったと記されている。



江戸ではその後、寛政かんせい。1789年-1801年)の頃、小松大けう三輪の大けうという山伏によって説経が語り伝えられ、祭文と説経節とを結びつけた説経祭文(せっきょうさいもん)がおこり、享和きょうわ。1801年-1804年)の頃には、本所米穀店米千なる人物が按摩(盲人)の工夫した三味線を用いて説経芝居を再興させた。この系統から薩摩若太夫(さつまわかだゆう)が出たものの、説経芝居はやがて衰えてしまった。ただし、その流れはわずかに伝えられて、明治時代に入って若松若太夫があらわれている。薩摩若太夫の流れを薩摩派、若松若太夫の流れを若松派といい、両者を「改良説経節」と呼ぶことがあるが、ともに座はもたなかった。江戸時代後期以降、説経は大都会を離れ、主として農村地域における屋外芸能に回帰して、その芸能としての余命を保った。説経は、零落した牢人によってになわれることもあり、かれらは江戸で「乞胸(ごうむね)」という組織をつくって他者による口演を嫌ったが、一方、香具師(やし、こうぐし)もまた売薬の方便から説経浄瑠璃を語ったところから、乞胸と香具師の利害はしばしば衝突した。



現在、説経節は、板橋八王子秩父など東京近郊の限られた地域に何人かの太夫を残すだけとなってしまっている。八王子や西多摩地方の八王子車人形写し絵などとともに行われる薩摩派の薩摩若太夫(13代目)、板橋を中心に活動する若松派の2世若松若太夫(1919年-1999年)・3世若松若太夫(1964年- )、天満派の天満八太夫の活躍が新しい。なお、明治維新ののち、薩摩派の太夫が福島県会津地方に門付に入ったところ、旧会津藩の人びとが宿敵薩摩を称する者だとして太夫を迫害したため「若松」を名乗ったという逸話も今日に伝わっている。