説経の歴史 操り興行の衰退 京都
京都では、日暮林清(ひぐらし りんせい)らによって鉦鼓を伴奏とする歌念仏が行われていたが、この一派から日暮八太夫(ひぐらし はちたゆう)や日暮小太夫(ひぐらし こだゆう)があらわれ、寛永以前から四条河原で説経操りを興行したと伝えられている。正本の刊行などから推定して寛文年間が京都における説経操りの最盛期であったと考えられ、葉室頼業(はむろ よりなり)の日記(『葉室頼業記』)によれば、小太夫による寛文4年(1664年)の説経操りは後水尾(ごみずのお)法皇の叡覧に浴すまでに至っている。なお、「日暮小太夫」の名跡は宝暦(1751年-1764年)の頃まで続いたと推定されている。
説経操りは、大坂・京都を中心とする上方においては義太夫節(ぎだゆうぶし)による人形浄瑠璃の圧倒的人気に押され、江戸にくらべて早い段階で衰退してしまった。浄瑠璃が近松門左衛門の脚本作品をはじめ、新機軸の作品を次々に発表して新しい時代の要請に応えたのに対し、説経操りは題材・曲節とも、あくまでもその古い形式にこだわったのである。