説経節の源流 ささら乞食 





近世にあっても、街頭や寺院境内、門口で演じられた説経でもささらを楽器として使用する場合があったが、これを伴奏に用いる「ささら説経」は、鎌倉時代にまでさかのぼるものと考えられている。



永仁(えいにん)4年(1296年)成立の『天狗草紙絵巻(てんぐぞうしえまき)には、粗末な着古しをまとい、ささらを摺る乞食僧が描かれ、いっぽう13世紀後半期に編まれたと推定される説話集『撰集抄(せんじゅうしょう)にも、「ささら乞食」にまつわる説話が収載されている。上述の『自然居士』もさることながら、廃曲となった世阿弥の謡曲のなかに『逢坂物狂(おうさかものぐるい)という曲があり、そこには「蝉丸」(せみまる)という人物が登場し、ささら・鞨鼓を鳴らしながら謡い狂うようすが演じられる。



近江国逢坂山蝉丸神社(せみまるじんじゃ)に祀られる蝉丸大神は平安時代の歌人 蝉丸に由来し、江戸時代の文献にも蝉丸法師は説経の徒にとっては彼らの祖神と仰がれる存在であったとの記録がある。蝉丸神社では『御巻物抄』を発行して、これを説経者の身分証明書、説経口演の許可証とした。

現存する説経節の正本は、上述のようにいずれも近世に属するが、このように説経節のテキストが比較的新しいのも、説経が長きにわたって乞食芸であったことと強い連関をもつものと推測される。たとえば、イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスが編んだ辞書『日本語文典』(1604年-1608年)に「七乞食」(日本で最も下賤な者共として軽蔑されてゐるものの七種類)のひとつとしてSasara xecquió (「ささら説経」)を挙げ、それを「喜捨(きしゃ)を乞ふために感動させる事をうたふものの一種」と説明しているところからも、説経節が乞食芸として把握されていた事実を知ることができる。