秘密集会タントラ 成立 経緯
『秘密集会タントラ』は、その後、次々と生み出されていくことになる後期密教経典群(無上瑜伽タントラ)の皮切りとなる経典(タントラ)であり、後期密教の始まりを告げる記念碑的な位置付けを持つ。
その内容は、下述するようにそれまでの仏教の戒律をことごとく破棄するかのごとくであり、そのため非常に衝撃的なものであるかのような印象を伴い、その一部は反社会的ですらあるとみなされている。かってのチベットにおいても同様の問題がおこり、そのためツォンカパ大師や当時の大成就者等は、後代に誤った訳に基づく安易な実践に進むことがないように、前段階として戒律や顕教といった枷をはめたり、書かれていることをそのまま実際の行動に移さず、あくまでも観想でのみ行うよう戒めるといった安全策を併用して、密教を学ぶために最低限必要な三昧耶戒の厳守と、無上瑜伽タントラの正しい理解に基づく様々な制限を設ける必要が生じた。
なお、現在の日本語訳に限っていえば、その内容にも反映されている通り『秘密集会タントラ』(及びその後の後期密教経典群)は、(インド仏教内の対ヒンドゥー教改革(=習合+庶民化改革)としての密教化の文脈の果てに)インド社会の底辺にいる人々(あるいは、脱社会的な人々)を、仏教信者として取り込むべく、彼らが日常的に行なっていた生活習慣・儀礼・呪法を摂取し、それらに仏教的意味づけを施す(そして、観想法として昇華させる)目的で編纂されたと推察される。
ただし、その内容形成と編纂は、特定のグループによって一挙に体系的に行われたわけではなく、各種の瑜伽(ヨーガ)を実践していた様々な行者グループの観法が寄せ集められ、『秘密集会タントラ』の名の下にまとめられたに過ぎない。そのため、いくつもの瑜伽観法や曼荼羅が列挙されており、観法の統合に失敗して矛盾した内容になっていたり、重複・欠陥があったり、曼荼羅の諸尊のどれかが欠落したり、配列の前後関係に齟齬があったりと、統一性・一貫性を欠いた箇所が少なくない。
そのため、その解釈と実践に当たっては、下述するように、いくつかの流派が生じることになった。