百済観音 様式


本像は、法隆寺金堂本尊の釈迦三尊像、同寺夢殿(ゆめどの)救世(ぐぜ)観世音菩薩像のようないわゆる止利式(とりしき)の仏像とは様式を異にしている。止利式の仏像は正面観照性が強く、側面感がほとんど考慮されていない点、左右相称性が強く、図式的な衣文表現などに特色があるが、百済観音像では側面感はより自然になり、立体的な人体把握が進んでいる。7世紀も早い頃の制作とされる法隆寺夢殿本尊の救世観音像を見ると、全体に正面性・左右対称性が顕著で、肩に垂れる垂髪(すいはつ)は「蕨手状」(わらびてじょう)と称される図式的なものであり、両腕から体側に垂れる天衣(てんい)は鰭(ひれ)状の突起を表しながら左右方向へ平面的に広がっている。これに対して百済観音像の垂髪はより写実的に表現され、天衣はゆるやかなカーブを描いて前後方向に揺れるように表現されており、天衣のカーブの優美さは側面から見て初めて了解される。両手も各指が違ったカーブを描き、写実的に表現されている。こうした点から、百済観音は夢殿本尊像などよりはやや年代が下るが、初唐彫刻の影響が見られる薬師寺(やくしじ)東院堂の聖観音像や法隆寺の夢違観音像などよりは古く、おおむね7世紀前半から中葉の作とする点で研究者の意見はほぼ一致している。しかし、この像の作風の源流をどこに求めるかについては諸説あり定説をみない。中国の南北朝時代の南朝の作風が影響したものとする説が古くからある一方で(小林剛、望月信成などの説)、北斉・北周・隋の仏像に様式的源流を見る説(上野照夫、町田甲一など)もある。後者の説によれば、法隆寺金堂釈迦三尊像のような7世紀前半のいわゆる止利式の仏像は北魏の作風を源流とするものと見、それよりも3次元的空間把握の進んだ像を時代の下がる北斉北周の影響下にあるものと見る。法隆寺金堂本尊のような止利様式の源流を北朝の北魏に求める従来の見方に対し、吉村怜は止利様式の源流は南朝にあるとしている。吉村説に基づけば、止利様式の源流を北朝に求め、これと異なる様式の仏像の源流を南朝や斉周様式に求める見方は成り立たないことになり、百済観音の様式の起源についても再考が必要となる。日本国内にある仏像のうち、法輪寺虚空蔵菩薩立像、中宮寺菩薩半跏像、法隆寺金堂四天王像などに百済観音と近い造形感覚を認め、制作年代の先後を論じる向きもある。