如来 語義の解釈
ブッダゴーサ(仏音)よる解釈
ブッダゴーサによる語義釈の全てではないが、一部として、
1 tathā āgata(如く到れる) - 「(古仏と)同じく一切を知る智慧に到達した者」。過去に出現した古仏がみな一切智性に到達した様に、同様に釈迦牟尼仏も一切智性に到達したため。
2 tathā gata(如く去れる) - 「(古仏と)同じくすべての煩悩を滅して去る者」。
3 tatha-lakkhaṇaṃ āgata(真如相に通じる) - 「真如 (tatha タタ) の特徴を悟った者」。
などがある。
仏教学者による解釈
仏教学者・中村元(なかむら はじめ)によれば、「タターガタ」(tathāgata)とは本来、「そのように行きし者」「あのように立派な行いをした人」という語義で、仏教・ジャイナ教・その他の古代インド当時の諸宗教全般で「修行完成者」を意味する語であり、「如来」という漢訳表現には「人々を救うためにかくのごとく来たりし者」という後世の大乗仏教的な見解がひそんでおり、初期仏教における語義とは乖離があると指摘している。
真身如来
「如」は「真如」(しんにょ)。真如の道に乗じ、因より果に来たって、正覚(しょうがく)を成ずるから「如来」と名づける。
如来とは、如実の道に乗じ、来たりて正覚を成ずるが故に、如来という。(『成実論』1)
如実より来る。故に如来と名づく。…涅槃を如と名づけ、知解を来と名づく。正しく涅槃を覚するが故に如来と名づく。(『転法輪論』)
如実の道より来る。故に名づけて如来と為す。(『大智度論』 24)
応身如来
真如の道に乗じ、三界に来たって化を垂れるゆえに「如来」と名づける。応身如来。
如来というは如を体し、しこうして来たる。故に如来と名づく。
問うていう。如を体ししこうして来るが故に如来と名づくとは、是れ応身なるや。来の義あるべし。真如法身、いかんが来あるや。
答えていう。本陰、今顕すが如く、また来と称するを得。(勝鬘宝窟上末) 諸仏のごとくにして来るゆえに「如来」と名づける。二身、三身に通じる。
つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。すなはちこれ必至滅度の願(第十一願)より出でたり。また証大涅槃の願と名づくるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり。(『教行信証』「証巻」 聖典註釈版 p.307)