仏舎利 歴史
釈迦入滅の地クシナガラの統治部族マッラ族は当初仏舎利の専有を表明し、仏教を国教とする周辺国との間に仏舎利を巡って争いが発生する事態となったが、結果として8等分され、それに、容器と残った灰を加えて周辺内外の10か所の寺院に奉納された。
200年の後、インドの敬虔な仏教徒であったマウリヤ朝のアショーカ王はインド統一を果たした後、全国8個所に奉納されていた仏舎利のうち7か所の仏舎利を発掘し、遺骨は細かく粉砕しひと粒ひと粒に分け、灰塵は微量ずつに小分けする作業を行って、最終的に周辺国も含めて8万余の膨大な寺院に再配布を実施した。
仏教が後年に伝来する中国では、多くの僧が仏舎利の奉納されたインドやタイに赴き、仏舎利の収められたストゥーパ(仏舎利を納骨する円すい形の仏塔。日本の卒塔婆(そとば)のモデルであり語源である)の前で供養した宝石類を「仏舎利の代替品」として持ち帰り、それを自寺の仏塔に納めた。この宝石を仏舎利の代用として奉納する手法は古くから日本でも行われてきた。