東大寺大仏殿の戦い 戦いの状況 前哨戦


池田軍は着陣した翌5月18日、宿院城(しゅくいんじょう)を攻城した。勝正は宿院城を抑えると興福寺の寺領を侵さずに北へ真っ直ぐ攻め上ることが可能になるため、重要な拠点と考えたと思われている。しかし松永軍もここを重要な拠点と考え、精鋭の部隊を配置していたのか頑強に防御し、逆に池田軍は多くの兵を失い西方寺に退却した。一応この日の戦いでは勝利した松永軍であったが、多聞山城の間際まで攻め込まれたことに危機感を覚え、陣地として使用できそうな


· 般若寺(はんにゃじ)

· 文殊堂(もんじゅどう)

· 仏餉堂(ぶっしょうどう)

· 妙光院(みょうこういん)

· 観音院(かんのんいん)


等を焼き払った。5月23日、池田軍は復讐戦に挑むべく、多聞山城の背後にある大豆山に陣をひいたが翌5月24日に松永軍に撃退されて再び西方寺に退却した。この時も松永軍は


· 宝徳院(ほうとくいん)

· 妙音院(みょうおんいん)

· 徳蔵院(とくぞういん)

· 金蔵院(こんぞういん)


等を焼き尽くした。





同年8月25日、久秀の援軍要請をうけ、畠山高政が率いる根来衆が再び出軍し、三人衆軍に属していた飯盛山城の城主 松山安芸守が裏切り畠山軍に加勢した。9月上旬頃、畠山軍が紀ノ川沿いに大和に入国してきたが、これに対して岩成友通、篠原長房連合軍が迎撃にあたり紀伊に撃退した。しかし、飯盛山城は未だ松永軍に属しており、背後の憂いを断つためにそのまま河内に兵2千をすすめ、飯盛山城を攻囲した。



多聞山城や飯盛山城の周辺で戦いが続いている中、寺社から久秀へ音物(いんもつ)が届けられるようになる。『戦国合戦大事典』によると、これは久秀に寺社を焼かれない為の切実な配慮ではなかったかと記している。これが功を奏したのかは解らないが、以後両軍で小競り合いが起きたとしても、寺院を焼く事はなくなっていった。またこの小競り合いが続いている中、松永軍は飯盛山城の救援軍として兵500を向かわせた。