東大寺大仏殿の戦い 戦いの状況 布陣
この動きを察知した筒井順慶は戦闘準備を整えるため、急ぎ筒井城の防備を固めた。同年4月11日、義継を擁する久秀は信貴山城から多聞山城に移動した。
その間、義継が久秀に寝返ったことに激怒した三人衆は大和へ入国。4月18日に三人衆軍と筒井軍は連合軍となって奈良周辺に出陣し、大和の情勢は一挙に緊張状態が高まっていった。この時の三人衆・筒井連合軍の兵力は『多聞院日記』によると1万余り、『東大寺雑集録』によると2万兵にもなっていたと記載されている。
三人衆・筒井連合軍は広芝、大安寺(だいあんじ)、白毫寺(びゃくごうじ)に布陣した。これに対して松永・三好連合軍は戒壇院(かいだんいん)、転害門に軍を進めた。4月24日、更に三人衆・筒井連合軍は天満山、大乗院山に軍を進め間合いを詰め、ついにこの日の夕刻より戦闘が開始された。東大寺の南大門周辺で両軍の銃撃戦が繰り広げられ、真夜中になっても銃声が衰えることはなかった。その後前線部隊の小競り合いがあったが、多聞山城との間合いを詰めるべく、三人衆は東大寺に陣を進めたいと考えていた。これに対して順慶は当初反対していたが、こう着状態を避けるべく興福寺を通じて東大寺への布陣の許可を申し出た。これに対して寺側は積極的に許可した。これは順慶自身が興福寺側であったことと、松永・三好連合軍は戒壇院、転害門に許しを得ず布陣しており、『戦国合戦大事典』によると多聞山城の築城以降、久秀に対して寺領が侵されるなど大きな不満が高まっていたと解説している。
同年5月2日、許しを得た三人衆の1人 岩成友通(いわなり ともみち)隊は1万兵で東大寺へ軍を進め布陣した。これに対して松永軍も戒壇院の防備を固め立て篭もった。両軍はかなり接近した位置に対峙することになる。この時の状況を『多聞院日記』では、
大天魔の所為と見たり |
—多聞院日記 |
と悲観し、かなりの緊張状態になったことが伺える。
5月15日、足利義栄を普門寺城で警護軍として駐屯していた篠原長房、池田勝正連合軍は8千兵で大和に入国、5月17日に西方寺(さいほうじ)に布陣し、これに即応した三人衆の1人 三好政康(みよしまさやす)隊が兵8千を引き連れて西ノ坂へ陣変えし、また岩成友通隊は氷室山法雲院(ひむろやま ほううんいん)の背後に布陣し、筒井軍は引き続き大乗院山に陣取り、東大寺南側を警戒し多聞山城への出入りを封鎖する策に出たと思われている。