東大寺大仏殿の戦い 開戦の経緯 前哨戦


すぐさま松永軍は行動を開始すると、久秀と長らく敵対関係にあったため三人衆と協調していたと思われる筒井順慶に矛先を向けた。その居城であった筒井城において筒井城の戦いとなり、同年11月18日に落城させた。しかし、松永軍が均衡を保てたのはここまでで、次第に劣勢に立たされていく。




翌永禄9年2月17日(1566年3月18日)、三人衆に加担する安宅信康(あたぎ のぶやす)に率いられた淡路衆が炬口城(たけのくちじょう)を出立、軍船百数十艘で兵庫に上陸。松永方の摂津の本拠地であった滝山城(たきやまじょう)を攻囲したのである。更に同年4月4日、三人衆軍は筒井軍と合流。総勢6千兵で多聞山城に向かうと、迎撃の松永軍3千兵による抑えを突破。同月11日には多聞山城の城下町を、13日には古市城(ふるいちじょう)の城下町をそれぞれ打廻った末に、16日には美濃庄城(みのしょうじょう)を落城させた。



これに危機感を覚えた久秀は意表をつく作戦に出た。5月19日、多聞山城から密かに5千兵を率いて大和を出国。木津川を下って摂津野田城付近に上陸すると、そこに伊丹城 伊丹親興(いたみ ちかおき)山下城 塩川満国(しおかわ まんごく)越水城(こしみずじょう) 瓦林(かわらばやし)三河守らの摂津国人衆の増援軍と合流を果たした。それだけに留まらず、さらに野田城より南下して、同盟関係にあった畠山孝政(はたけやま たかまさ)に率いられた根来衆(ねごろしゅう)等の紀伊勢の支援まで得た上で、5月下旬ごろより6千兵で堺を制圧。かつては堺公方(さかいくぼう)を設けていたように、三好氏にとって畿内の戦略基盤としていた都市を三人衆から掠め取った。



しかし三人衆軍も素早く対応、堺に向け兵を動かした。更に高屋城にいた三好義継、三好康永(やすなが)軍、池田城にいた池田勝正軍、滝山城を攻囲していた安宅信康軍の一部を加わえ、総勢1万5千兵で松永が居座る堺を包囲した。



松永軍6千兵に対し、三人衆軍1万5千兵では自軍の劣勢を認めざるを得ず、久秀は津田宗達(つだそうたつ)会合衆に仲介を申し出、堺を戦場としない、自らの敗北を認めるという条件で停戦を結ぶことになる。30日に久秀は姿をくらまし、久秀の明け渡した堺には代わりに三人衆軍が駐屯し、畠山高政は紀伊に帰国した(なお、この仲介に成功すると津田宗達は間もなく息を引き取った)。



劣勢の松永軍に追い討ちを掛けるように大和では、6月8日に筒井軍は筒井城を攻城し、居城の奪還に成功した。また6月14日、篠原長房(しのはら ながふさ)率いる阿波讃岐の1万5千兵が兵庫に上陸した。6月24日、三人衆はここに至り、遺言で秘されてあった長慶の死を世間に公表すると、三好氏の新当主に据えた義継を喪主とする盛大な葬儀真観寺(しんかんじ)で営んだ。ここから三人衆軍の久秀討伐に向けた快進撃が始まる。