南都焼討 背景
平治の乱の後、大和国が清盛の知行国になった際に清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視して大和全域において検断を行った。これに対して南都寺院側は強く反発した。特に聖武天皇の発願によって建立されて、以後鎮護国家体制の象徴的存在として歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と藤原氏の氏寺であった興福寺は、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景とし、また大衆(だいしゅ)と呼ばれる僧侶集団が元来自衛を目的として結成していた僧兵と呼ばれる武装組織の兵力を恃みとして、これに反抗していた。だが、治承3年(1179年)11月に発生した治承三年の政変で皇室と摂関家の象徴ともいえる治天の君後白河法皇と関白 松殿基房(まつどの もとふさ)が清盛の命令によって揃って処罰を受けると、彼らの間にも危機感が広がり、治承4年(1180年)5月26日の以仁王(もちひとおう)の挙兵を契機に園城寺(おんじょうじ)や諸国の源氏とも連携して反平氏活動に動き始めたのである。
以仁王の挙兵が鎮圧された後の6月、平氏は乱に関わった園城寺に対する朝廷法会への参加の禁止、僧綱(そうごう)の罷免、寺領没収などの処分を行ったが、興福寺はこの時の別当玄縁(げんえん)が平氏に近い立場をとっており、興福寺内部に平氏との和平路線をとる勢力が現れた事により、園城寺ほど厳しい処分はされなかった。平氏と興福寺の緊張関係は平氏の福原行幸後に一定程度緩和されていたが、この年の末に近江攻防で園城寺・興福寺の大衆が近江源氏らの蜂起に加勢し、それによって平氏は12月11日に平重衡(たいらの しげひら)が園城寺を攻撃して寺を焼き払うと、いよいよ矛先は興福寺へと向くことになる。