牛頭天王 歴史 平安時代


平安時代の絵画『辟邪絵』(へきじゃえ。奈良国立博物館蔵)には、疫神や牛頭天王をつかんで食べる天刑星(疫神を食べる道教の神『封神演義(ほうしんえんぎ)では桂天禄(けいてんろく)が封神された)の絵と詞が描写されている。



この時代には、都市部でさかんに信仰されるようになり、祇園社の御霊会ごりょうえ。祇園祭)において祀られるようになったといわれる。祇園御霊会がさかんになったのは10世紀ころからで、夏に流行しがちな疫病を鎮める効果が求められた。京都では感神院祇園社に祀られ除疫神として尊崇され、祇園社のある地は「祇園」と称されるようになった。



なお、当時辞書として編まれた『伊呂波字類抄』(いろはじるいしょう)の「祇園」の項では、牛頭天王は天竺北方の「九相国」の出身で、またの名を武答天神(むとうてんじん)といい沙竭羅竜女(しゃからりゅうにょ)を后とし八王子ら84,654神が生まれたとしている。