浄土宗 歴史 ②


その後、浄土四流(じょうどしりゅう)という流れが形成される。すなわち、信空の没後、京都の浄土宗主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺(ちょうらくじ)義、京都で証空に対抗して諸行本願義を説いた長西の九品寺(くほんじ)義の4派を指す。もっとも当時の有力な集団の1つであった親鸞の教団はその没後(親鸞の曽孫である覚如の代)に浄土真宗として事実上独立することとなりこの4流には含まれておらず、他にも嵯峨二尊院(さがにそんいん)湛空(たんくう)知恩院を再興した源智(げんち)、一念義を唱えた幸西など4流に加わらずに独自の教団を構成した集団が乱立した。だが、中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると西山義と鎮西義の2つであり、この両義の教団を「西山派」「鎮西派」と称することとなる。



一方、関東においても鎌倉幕府によって念仏停止などの弾圧が行われたが、後には西山派は北条氏一族の中にも受け入れられて鎌倉弁ヶ谷(べんがやつ)に拠点を築いた。また、鎮西派を開いた第2祖弁長の弟子第3祖良忠(りょうちゅう)下総国 匝瑳南条荘(そうさなんじょうのしょう)を中心とし関東各地に勢力を伸ばした後鎌倉に入った。その他、鎌倉にある極楽寺(ごくらくじ)真言律宗になる前は浄土宗寺院であったとも言われ、高徳院こうとくいん。鎌倉大仏)も同地における代表的な浄土宗寺院である(ただし、公式に浄土宗寺院になったのは江戸時代とも言われ、その初期については諸説がある)。だが、西山派は証空の死後、西谷流・深草流・東山流・嵯峨流に分裂し、鎮西派も良忠の死後に第4祖良暁(りょうぎょう)の白旗派の他、名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派に分裂するなど、浄土宗は更なる分裂の時代を迎える事になる。



その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西派の中でも藤田派の聖観(しょうかん)良栄(りょうえい)、白旗派の聖冏(しょうげい)聖聡(しょうそう)が現れて宗派を興隆して西山派及び鎮西派の他の流派を圧倒した。特に第7祖の聖冏は浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとして「五重相伝(ごじゅうそうでん)の法を唱え、血脈・教義の組織化を図って宗門を統一しようとした。第8祖の聖聡は増上寺(ぞうじょうじ)を創建し、その孫弟子にあたる愚底(ぐてい)松平親忠(まつだいら ちかただ)に乞われて大樹寺(だいじゅじ/だいじゅうじ)を創建した。