浄土宗 歴史 ①
法然の没後、長老の信空(しんくう)が後継となったものの、証空(しょうくう)・弁長(べんちょう)・幸西(こうさい)・長西(ちょうさい)・隆寛(りゅうかん)・親鸞ら門人の間で法然の教義に対する解釈で僅かな差異が生じていた。
嘉禄(かろく)3年(1227年)、再び専修念仏の停止が命ぜられて、浄土門では大きな被害を受け、以後、法然教団の分派が加速することとなった(嘉禄の法難)。事の発端には、法性寺(ほっしょうじ)の寺宝が盗まれた際に、念仏者が盗賊団の一味として疑われたことがある。また、延暦寺の僧徒たちが念仏者を襲撃したりし、『選択本願念仏集』(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう/せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)は禁書扱いを受け、東山大谷の法然墓堂も破壊された。なお、この際に幸西は壱岐国に、隆寛は陸奥国に配流されている。法然の遺骸は、太秦広隆寺(うずまさこうりゅうじ)の来迎房円空(らいげいぼう えんくう)に託され、1228年(安貞(あんてい)2年)に西山の粟生野で荼毘に付された。