日蓮宗不受不施派 歴史
· 1595年(文禄4年)豊臣秀吉主催の千僧供養会に際し、京都妙覚寺(みょうかくじ)・日奥は不受不施義(ふじゅふせぎ)を主張して出仕を拒否し、弾圧される。
· 1599年(慶長4年)徳川家康は不受不施派の京都妙覚寺・日奥と受不施派の京都妙顕寺(みょうけんじ)・日紹(にっしょう)を大阪城にて対論(大阪対論)させ、日奥は流罪となる。
· 1630年(寛永7年)徳川幕府は不受不施派の池上本門寺・日樹(にちじゅ)、中山法華経寺・日賢(にちけん)、平賀本土寺(ひらがほんどじ)・日弘(にちこう)、小西壇林(こにしだんりん)・日領(にちりょう)、碑文谷法華寺(ひもんやほっけじ)・日進(にっしん)、中村壇林(なかむらだんりん)・日充(にちじゅう)と受不施派の身延久遠寺・日乾(にっけん)、身延久遠寺・日遠(にちおん)、身延久遠寺・日暹(にっせん)、藻原妙光寺(もばらみょうこうじ)・日東(にっとう)、玉沢妙法華寺(たまざわみょうほっけじ)・日遵(にちじゅん)、貞松蓮永寺(ていしょうれんえいじ)・日長(にっちょう)を江戸城にて対論(身池対論。しんちたいろん)させ、日樹、日賢、日弘、日領、日進、日充は流罪となる。
· 1666年(寛文6年)徳川幕府は土水供養令を発令し、野呂壇林・日講は不受不施義を講ずるものとして、日講は流罪となる。
· 1669年(寛文9年)徳川幕府は不受不施派の寺請を禁制とし、長く弾圧される。
· 1871年(明治4年)明治政府は寺請制度を廃止とし、禁制は解かれる。
· 1876年(明治9年)4月10日明治政府は日蓮宗不受不施派の再興を許可する。
· 1941年(昭和16年)日蓮宗不受不施派(本山妙覚寺)と日蓮宗不受不施講門派(本山本覚寺)が合同して本化正宗と公称する。
· 1946年(昭和21年)本化正宗は分派し、日蓮宗不受不施派は妙法華宗、日蓮宗不受不施講門派は日蓮講門宗として、それぞれ独立する。
· 1952年(昭和27年)妙法華宗、名称を日蓮宗不受不施派に変更する。