大乗の涅槃経 秋収冬蔵(しゅうしゅうとうぞう)③



また、同じく菩薩品には


爾の時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし、是の時に当に諸の悪比丘有つて是の経を抄略し分ちて多分と作し能く正法の色香美味を滅すべし、是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来の深密の要義を滅除して世間の荘厳の文飾無義の語を安置す前を抄して後に著け後を抄して前に著け前後を中に著け中を前後に著く当に知るべし是くの如きの諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり



とあるが、秋収冬蔵の経文は、まさに涅槃経の経文を都合のいいように解釈するために抄略したものである、と反論している。しかし、これは、先の文を否定したものではなく、他の経文を否定したものと取るのが、正しいであろう。なぜなら、同一の経文内で、一つの品が他の品と反対の事柄を述べることはあり得ないからである。ただし、涅槃経には、その疑義もあり、例えば、一闡提の成仏については(認めたり、認めなかったりという記述)、涅槃経一貫して、同一ではなく、錯誤が見られることも指摘されている。




さらに、この秋収冬蔵の譬喩説は南本と北本のみにしかない。法顕・六巻本には、



復、次に善男子、譬えば夜闇に閻浮提の人、一切の家業(けごう)は皆悉く休廃(くはい)し、日光出で已(おわ)って、其の諸の人民、家事(けじ)を修めることを得るが如し。是の如く、衆生、諸の契経及び諸の三昧を聞いて、猶夜闇に此の大乗の般泥洹経の微密の教えを聞くが如し。猶日出でて諸の正法を見るが如し。彼の田夫(でんぷ)の夏時の雨に遇うが如く、摩訶衍(大乗)経は無量の衆生を皆悉く受決(じゅけつ)して如来性を現ず。八千の声聞は法華経に於いて記別を受けることを得たり。唯、冬氷の一闡提を除く。



とあるように、法顕が翻訳した六巻本には「法華経の中で八千の声聞が記別を得た」との記述はあるものの、曇無讖が翻訳した北本及び、六巻本と北本を校合訂正した南本には「大果実を収めて秋収め冬蔵めて更に所作なきが如し」との文言は見当たらない。したがって、六巻本においてもこの箇所は涅槃経の優位性を主張するための記述で、法華経での声聞記別は単にそのための引証でしかなかったことが伺えるとの主張は、論点の明確化と、後世の研究が待たれるところである。いずれにしても、涅槃経(大乗の)は、法華経の後に成立したものではなかろうか。しかしながら、この涅槃経は、それだけに、仏典における多くの問題点を総ざらいしている観があり、貴重な経文であり、(根本聖典の)涅槃経よりも、多くの影響をのちの仏教発展史にとどめることになった。より一層の研鑽が望まれるところである。